茨城県で強豪校を作り上げた男・常総学院木内幸男監督

茨城県屈指の強豪校を作り上げてきた木内幸男監督。練習の厳しさももちろんだが野球理論をきっちりと選手たちに理解させるため座学も重視。時間をたっぷりとって「野球の勉強」を行なった。野球とは何たるか?を頭と身体で覚えた選手たちは、その力を存分に発揮し幾度となく甲子園への切符を手にする事となる。漠然と練習しても上達はない。上手くなるには目標の明確化と自覚が必要だ。取手二高から創部間もない常総学院と渡り両校を甲子園常連校に育て上げた。そんな木内監督の「強い組織」を作る秘訣について聞いてみた。
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取手二高から常総学院へ移籍

木内監督は、取手二が優勝した直後に常総学院に移った。
実は優勝したメンバーが1年生のときに、すでに常総学院への話がもち上がっていた。承諾した理由は「とことん指導するには公立を離れ、一度私学へ」との思いからだったが、考えもしなかった甲子園での優勝によって世間を相手に苦い思いもした。
「優勝直後に移ってしまったわけだから、風当たりはなかなか厳しかったですね。でも私が指導することを前提に、待っている生徒たちがいた。ヤツらを早く一人前にすることだけしか頭にありませんでした」

厳しい指導で選手を鍛え上げていったが、常総に移ってからの考え方の基本は「優勝した取手二のチームを倒すのにはどうしたらいいか」。あれだけの選手がいたチームを倒すのは、並大抵のことではない。でも、倒せるだけの材料がそろえば、甲子園での勝利も飛び込んでくる。
それが常総でのスタートラインになった。

バントの講義に2時間を費やす

そして、就任3年目の春(昭和62年、第59回センバツ)に、早くも甲子園の切符を獲得。夏には準優勝まで果たした。平成6年の春(第66回センバツ)にも、再び準優勝を勝ち取った。
巨人へ入団した仁志敏久は、1年生の頃から木内監督のそばに座り、監督の言葉を克明に頭にインプットしていたという。監督の独り言には、その後の大学や社会人でも教わることのなかった財産がいっぱい詰まっていたそうだ。
「試合をしている中で、次に何の球が来るか。きっとセカンドゴロになるぞとか、いちいち私が解説しとるんですよ。で、当らなかったら、裏かいてきたなと逃げる(笑)。仁志はそれを全部自分のものにしていたね」
こうした解説を、実は講義の時間をきっちり設けて選手に伝えていた。ひとつの話を1回では理解できないから2回、3回と繰り返し、理解をさせる。野球の面白さも同時に伝えてきた。
「何せ、毎日言うことをこらえて1~2週間ため込んでおくでしょ。それを一気に吐き出すもんだから、ちょっとの時間じゃダメ。私の話は長くて長くて(笑)。バントひとつ話すにも2時間以上かかるから。子どもたちにとっては確かに難しいと思います。でも大学ではなく、高校時代に知っておいてもらいたいんです。精神野球から合理性の野球になっている今、それを追及するなら講義で理解させてからプレーさせる。これが一番の近道じゃないかと、最近そう思うようになりました」

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キャッチボールをきちんとできる選手は、ほんの2、3人。日ごろどんなに練習しても、漠然と過ごしてしてはなかなか上達しない。そんな日々の中で選手が見違えるように成長する場所がある。それが甲子園であることを木内監督はよく知っている。
「人から見られることで、自覚が生まれる。冗談ではなく、甲子園に来て初めて私の話を一生懸命聞くようになって(笑)。そのうえで初めて、のびのび野球ができるんです。県予選はつらい。その上の思いをするためにも、甲子園には行きたいと思う」

優勝請負人と呼ばれた男の3つの教え・常総学院 木内幸男監督

2016.08.12

勝利のあと、満面の笑みで立つお立ち台。それを「麻薬のようなもの」と表現しながら、可能性に賭ける。年齢にそぐわない、タフさとしたたかさ。甲子園に届くまでが長かっただけに、今を存分に楽しんでいるようにも見える。
そして頑張りたいのは、甲子園を夢見る選手のためだけでなく、部にかかわるもうひとりの存在に報いるためだと最後に言った。
「監督のなり手はいくらでもいる。でも、部長はいない。忙しいばかりか、全責任を背負わなければならない日陰の仕事。私は勝って恩返しするしかないもんで、精いっぱいやらないといけんのです」

【了】

藤井利香●文
小島 智●写真

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