沖縄野球を全国区に育て上げた男・沖縄水産 栽弘義監督

今でこそ沖縄県は高校野球界では「強豪」と言われる存在になった。しかしその道は決して平坦ではなかった。アメリカ占領時から高校野球に携わり一つひとつ手作りで沖縄の野球を全国区に教え上げた男がいた。その名は栽弘義。今回は豊見城、沖縄水産で監督を務めた栽監督に焦点をあてる。

プロ球団に社会人、大学。そして、甲子園を目指す高校チームも、今や南国の地・沖縄で当たり前にシーズン前のキャンプを張るようになった。ここに来ればとことん練習ができるばかりでなく、集まってくるたくさんのチームと試合を組むことが可能だ。日ごろ顔を合わせることのないチーム同士が交流を深める機会でもあり、ラグビーで言えば、夏の菅平高原のようなものだろうか。
そして、菅平とは異なり、迎える側である沖縄のチームにも大きなメリットが生まれる。本土に行かずともトップレベルのプレーを間近で見られ、情報を手にできるという利点。本土の人々が沖縄に来ることはたやすいが、主な交通手段が飛行機の沖縄の人々にとっては、島を出るのは簡単ではない。本土ならコスト削減で車を使い延々高速道路を走らせ北海道へ、九州へと足を伸ばすことができるが、それができないのが沖縄なのだ。
沖縄は、本土と唯一陸でつながっていない。いくら科学が発達したところで、海底トンネルや橋がかかることはないだろう。昭和39年、東京オリンピックに乗じて東海道新幹線が敷かれたとき、中京大の学生だった当時の栽青年はショックを隠せなかった。
「沖縄はこれでまた勝てないと思った。昼、授業を終え、午後名古屋から広島に行って十分試合ができる時代になったんです。でも沖縄は一生離島。指導者がうんと勉強せねばいけないと、自分に言い聞かせたものです」
ならば、人々がどんどん来てくれる場所に沖縄がなったら・・・。かねてからそう願っていたのが、豊見城、沖縄水産を率いて甲子園を沸かせた故・栽弘義監督だった。

本土への遠征は自前の船とバスで

沖縄水産で指導していた当時、合宿地は佐賀・鳥栖高校。鹿児島までの船、その先は自前のバスを運転していき、宿泊は同校の同窓会館である。費用は飛行機を使ったときの4分の1で済む。鳥栖高のある場所はインターチェンジが近く、九州や中国地区のチームが集まりやすい。試合も存分に行えた。
「ありがたい。それでも遠征はこれがやっとで、九州止まりです。甲子園に出た直後くらい規則だと言わず、足を伸ばして強化試合ができたらいいんだけどね」

 その一方で、栽監督の強い味方になったのが、修学旅行で沖縄にやってくるチームだった。季節を問わず観光のメッカとなり、1日に何便もの飛行機が離着陸する沖縄。修学旅行生は年々増え続け、旅行を兼ねて試合をしてくれるチームが現れるようになっていた。
「修学旅行の1日を試合にさいて、ウチを訪ねてくれます。私らが飛行機に乗ることは滅多にないが、相手さんが来てくださるので大変助かります。だから、訪れる野球部関係者に、私はいつのときも感謝を込めて接待するんです」

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 青く広い海が大々的に、派手に宣伝され、沖縄がクローズアップされる。でも、戦争を知らぬ世代が続々沖縄の地にやってくることを、地元の人々は内心どう思っているのだろう。気になっていた思いを、栽監督にさりげなく聞いたことがある。
「それは違うよ。例えばもし、航空会社が沖縄キャンペーンをやめてしまったら・・・。沖縄という小さな島は成り立たない。この限られた土地の中で生きるには、人の力がとっても必要。そして、人への感謝を忘れてはいけないの」
心に響いた。ま~るい顔をしわくちゃにし、小さな目をさらに細めてそう言った栽監督の顔が忘れられない。

「若い監督はすぐに遠征って言うけどね・・・」
思うようにはいかない中で、訪れる人を精一杯出迎え、チームは力をつけていった。そして、そんな栽監督の描いていた夢が、沖縄をキャンプ地に・・・との思いだった。
「情報が遅い。現物がない。アンダーハンドのピッチャーが県内にいなくてどうしようなどと、どれほどあがいたことか。だから私は指導者になって以来、沖縄をキャンプ地にしたいとずっと努力してきたんです」

1年生だけの大会を発案

キャンプ地として定着する前は、数あるハンディを埋める策をいつのときも考えていた。そのひとつに、オフシーズンに入るぎりぎりに行なわれる1年生大会がある。厳しさの中にも喜びを与える必要性を人一倍説く、栽監督自身の発案だった。
「1年生はまじめだからレベルがぐっと上がり、とてもいい試合ができる。やる気を持続させることにもつながるし」
オフに入ると目の前の目標がないために、やめてしまう選手が少なくなかった。これは沖縄に限らず全国的にある話だが、1年生大会は思った以上に効果があった。今や沖縄独自のスタイルとして定着。その背景には、栽監督が大学時代にみたあるシーンが浮かびあがる。
「当時全盛だった中京商(現中京大中京)に練習を見に行ったとき、1年生が外野でじっと並び生け垣を作っていた。狭くてやりようがなかたんだろうが、こういう子どもをつくってはいけない。これがアンチ野球をつくる。正直、田舎で良かったと思った」
生々しい記憶として脳裏に焼きつき、その思いが1年生大会誕生のきっかけになった。

そんな時を経て、キャンプ地・沖縄は栽監督の30年来の夢が実現し、ますます活気づいている。本島だけでなく石垣島、宮古島と遠征するチームも多く、中でも石垣島の八重山商工、八重山高などの活躍は記憶に新しい。
そんな現在の沖縄野球を、今栽監督は天国からどんな思いで見ているのだろうか。

藤井利香●文
Flickr●写真
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