沖縄の高校野球を全国に知らしめた豊見城高校 栽弘義監督

小禄・豊見城・沖縄水産を率いた栽監督。それまで弱小だった沖縄県の高校野球の実力を押し上げた。その裏には物資がない状況。いわばゼロから一つひとつを積み上げる、想像に絶する努力があった。

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そんな豊見城高校時代の栽弘義監督に焦点をあてる。

豊見城高校 栽弘義監督の野球とは

豊見城高校は太平洋戦争での陸軍24師団第2野戦病院壕など「戦争の遺跡」が数多く残る豊見城市にある。

沖縄県勢の甲子園初出場は、昭和33年の第40回大会。代表となった首里高校は、勝利は飾れなかったが全国のファンから温かい拍手を送られ、一握りの〝甲子園の砂〟を持ち帰る。

が、那覇港に着いたとき、検疫官の手でそれは無常にも海へ捨てられてしまった。まだ米軍管理下にありパスポートのいる時代、琉球政府の植物防疫法に触れるというものだった。沖縄の高校野球の歴史を物語るひとコマである。
 栽監督は、この首里高に県大会決勝戦で敗れた。当時、糸満高の2年生。首里高の活躍を横目で見つめながら、悔しさと同時に、高校野球にこの先もずっと携わりたいという思いが芽生えたときでもあった。

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米軍基地のメジャーリーガーからヒントを得た男 沖縄水産 栽弘義監督

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沖縄野球を全国区に育て上げた男・沖縄水産 栽弘義監督

2016.09.17
「僕らの監督は中学校の先生で、指導は週に1回あればいい方だった。ところが、相手の監督は沖縄初の教員監督。自校にいて毎日指導してくれる。それがとてもうらやましくて、だから自分も教員になり、同じように教えることができたらと思ったんです」

指導者を志し、卒業後、大学は思い切って愛知・名古屋へ。中京大学へ進んだが、実は入ってまもなく野球部をやめてしまい、その後は徹底して指導者になるための学びを積んだ。野球に対する知識、情報量はこのときから各段に増えていき、他の指導者を圧倒するようになる。

中でも内野のフォーメーションは、プロでもやっていないだろうと思うような緻密さをもち、選手に「二重、三重の罠が仕掛けられている」と言わせるほどとなる。

栽監督の最初の赴任先は昭和39年、小禄高だった。46年から部長、監督として指導にあたった次の豊見城高では、50年のセンバツから春夏合計7回甲子園に送り、全国の野球ファンに知られることとなる。

部員がボールを買うためアルバイト

豊見城時代の話をすれば、栽監督がうちにぜひと声をかけた中学生のひとり、それが赤嶺賢勇投手(のちに巨人入り)だった。興南などいくつかのチームからも誘いを受けていたが、無名の高校ながら栽監督の緻密な野球を学びたいと豊見城を選んだという。

余談ながら、偶然にも赤嶺投手が生まれたのが、首里高の甲子園出場の年だった。大きな期待を背負っての入部だったと思われるが、練習初日のエピソードがいかにも沖縄らしい。赤嶺投手からのちに聞いた話だが、合格発表前に呼び出され、練習着を持ってグラウンドに行くと先輩から手渡されたのが柔道着。それに着替えて行けと指示された先が、サトウキビ畑だった。

その理由は明白。豊見城は県立高校だ。部費など十分にあるわけがなく、ボールやバットを買うためにここでサトウキビを刈るアルバイトをさせられたのだ。柔道着を着せられたのは、サトウキビについている小さなトゲが肌に刺さるのを防ぐためだった。現代の選手たちには、とても考えられない話だろうが。

入部後はあっという間にエースとなり、1年秋の九州大会ベスト4となり念願のセンバツ大会に出場。思い起こすと、当時は沖縄のチームの力がまだ全国的に認められていなかった時代である。抽選会では沖縄を引き当てた相手校から、「やった!」と万歳されることも多々あった。

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原辰徳のいる東海大相模と対戦

そんな状況を一気に変えていったのが豊見城だ。センバツでは沖縄勢初のベスト8となり、準々決勝では昨年まで巨人の監督を務めた原辰徳(当時2年)のいる東海大相模と対戦。この年が同校の野球部創部11年目というまだ歴史の浅いチームながら、選手はみな大柄で体格がよく、平均身長が170㎝に満たない豊見城とは対照的だった。

試合は白熱の一戦となった。9回2アウト、あと1つで勝利というところまでこぎつけたのは豊見城。でも、勝利の女神は微笑まず、次の打者の打球が不運にも一塁ベースに当たって二塁打となり、その後タイムリーヒットを浴びる。その次もまた〝ありえない〟打球となり、打ち取ったはずの打球が一塁後方に小フライとなり、よろけながら二塁手が捕球したがそのまま転倒。ボールはグラブからポロリ・・・。逆転で、豊見城は敗れた。

高校野球はこんな展開が少なからずあるから面白いわけだが、しかし、この活躍は沖縄の人々の心を確実にとらえた。春先には、鹿児島から招待され、初めて遠征試合も経験するところとなった。

栽監督が言っていた。
「それまで沖縄に本土のチームを呼ぼうという発想はあっても、呼ばれるという発想はまったくなかった。いつか沖縄をキャンプ地にしたいとの思いの中で、ようやくそのスタートラインに立てたかなと、そんな気持ちがしました」

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家族よりも野球。栽監督の『野球への情熱』

 
ところで、このセンバツで監督として登録されたのは19歳の3年生部員だった。家庭の事情で進学が遅れ、年齢制限から選手として出場できなかったため、栽監督の計らいで監督としてベンチ入りさせたのだ。

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もちろん、試合を動かしたのは部長としてベンチにいたスーツ姿の栽監督だが、その裏側では、あまり知られていない驚くべき事実がほかにあった。
これは栽監督自身からではなく赤嶺投手から聞いた話だが、大会の最中、栽監督の3歳になる次男が高熱を出して命の危険にさらされていたという。その一報を受け、沖縄に急きょ戻った栽監督。選手たちは、大会期間中に監督が戻ってくることはないだろうと思っていたそうだ。

だが、監督はすぐにとんぼ返りで戻ってきた。周りの人に、最後まで止められながらも・・・。

「家族を犠牲にしてまで沖縄の野球に賭けていた、ということですよね」と、赤嶺投手。
こうした並々ならぬ情熱をもって高校野球に挑んだ栽監督は、ただ厳しい練習を選手たちに科しただけではなかった。時間通りに動かない、「なんくるないさ~(どうにかなるさ)」に代表される沖縄独特の緩い空気にメスを入れ、規律をもうけて生活の根本から見直した。

練習開始が1分たりとも遅れたことはなく、選手たちは教室を飛び出すと一目散にユニフォームに着替えてグラウンドに出た。野球の技術だけではない、生活面にもとことんこだわった指導があったからこそ、豊見城は全国で通用するチームに育ったのである。

「豊見城の選手はいつだって一番小さかった。でも彼らはよく練習し、そして、とことんミーティングしていた。計算のできるチームで、指導者としてはやりやすかった」
昭和55年、異動で沖縄水産へ。沖縄球児のかつてのひ弱さはなく、パワフルな印象が定着。平成2、3年の2年連続準優勝は、全国に肩を並べるチームづくりを目指した末の、27年目の快挙だった。

藤井利香●文
小島 智●写真

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