革新的な練習方法を作り上げた仙台育英高校野球部 竹田利秋・元監督
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夢の甲子園優勝への「決勝戦」
竹田監督の悲願は優勝である。平成元年夏は、あと一歩で深紅の大優勝旗を逃した。
優勝は帝京だった。
「終わってから、ひしひしと残念だと感じました。それまでは生徒も私も淡々としていてね。たいしたミーティングなど前夜も行なわなかった。でも今となってはそれも後悔のひとつ。負けた原因を振り返ったとき、大きな反省材料になりました。」
チームは県予選同様、甲子園に入ってもいつもどおりで一戦一戦に臨んだ。
そのペースをあえて崩す必要はないと思った監督は、決勝の日も変わらない朝を迎えた。
しかしゲームに入ってしばらくしたとき、思わぬ出来事が起きた。これまで一度もなかったといっていい、サインミスがあったのだ。
「私の方を見ていたから当然わかっていると思ったのですが、その生徒のプレーは違ったものだった。しまった!と思いました。やはり生徒たちらは決勝という特殊な雰囲気にのまれていたんでしょう。でもそれを見抜けなかった。なら前夜にミーティングするなり策を講じるべきだったと、私なりに反省したんです。なんて惜しい事をしたのかと、ものすごく悔やみましたね。」
ですから今度決勝に行ったらうまくやりますよと、竹田監督はにこやかに笑った。
「まじめにやっていれば、いつか神様はチャンスをくれると思って精進します。」
これまでの間、やめようと思ったことがないと言ったらウソになる。
何度か自分に賭けたことがある。
例えば東北高校時代、投打の中心となってチームを引っ張った中条善伸投手(巨人〜南海)が甲子園では四球に泣かされ、最後に彼を男にできなかったら指導者として失格だと
自分を瀬戸際まで追い込んだ。中条投手は4回目に出場した3年の夏、別人の快投で竹田監督のクビをつなぐ。
賭けては再び前進する野球人生。数々の思い出があるが中身は反省ばかり。しかし全力投球であることと、語る。
無冠の名伯楽。
「幸せです。自分の好きなことがこの年になってもできる、これほどの幸せは他にない。奥が深く複雑多岐で、そして負けるからますますファイトがわきますよ。しかしそろそろ大爆発したいですね。」
再挑戦が叶った日、多くのファンには優勝旗が白河の関を超えるかという競技力だけでなく、こうした竹田監督のはるかな思いを知ったうえで、勝負の行方に心を馳せてもらいたいものである。
・竹田利秋
1941年和歌山県生まれ
和歌山工業高校~國學院大学
高校3年時代に三塁手として甲子園出場
國學院大学時代は一塁手
1963年~1985年東北高校野球部監督
1985年~1995年仙台育英野球部監督
取材・平成5年10月
【了】
藤井利香●文
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