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阪神タイガースを2度優勝に導いた男・藤本定義

 2017/12/14 プロ野球
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真弓・バース・掛布・岡田を擁し阪神タイガースが1985年に優勝した事は記憶に新しい。

ではその前はいつ?と考えると実に21年もさかのぼることになる。1964年(昭和39年)だ。

更に前は?となると実は2年前の1962年(昭和37年)。
短期間の間に2度も優勝している。

2回の優勝に導いた男の名前は藤本定義。

プロ野球がセ・パに分裂して阪神に初めてペナントをもたらした藤本定義の勝利への戦略は一体どんなものだったのだろうか。

「ローテーション制」の確立をした藤本定義

藤本定義が監督としてプロ野球界に残した大きな足跡として先発投手の「ローテーション制」を確立させたことが上げられる。

職業野球が長期1シーズン制に移行した1939年(昭和14年)、藤本はエースのヴィクトル・スタルヒンを96試合中、実に7割強にあたる68試合に登板させている。

沢村栄治が依然として兵役にあり、東京鉄道局時代からの盟友だった前川八郎が前年限りで退団するなど投手陣のコマ不足は否めず、京都商から入団した新人の中尾輝三も制球難という課題を抱えていたため、藤本はスタルヒンに頼らざるを得なかった。

スタルヒン

ちなみにこの年はスタルヒン、中尾(39試合)のほか、前年秋に一塁手に転向していた川上哲治が18試合、2年目の楠安夫が14試合に登板しているが、公式戦に投手として出場したのはこの4人だけだった。

「30勝投手を出すのは監督の恥」

藤本は移動日を利用して2日以上の連投を9回に抑えるなどの配慮を行なったものの、翌1940年も104試合中55試合に登板して38勝を上げたスタルヒンの肉体には想像を絶する疲労が蓄積し、1941年のシーズン途中、胸膜炎を発症して長期離脱を余儀なくされた。

藤本はその29年に及んだ監督生活で、巨人時代の沢村、スタルヒン、中尾、阪急時代の米田哲也、梶本隆夫、阪神時代の村山実、小山正明、ジーン・バッキー、江夏豊など計11人の20勝投手を誕生させているが、30勝以上を上げたのはスタルヒンしかおらず(1937年の沢村は春季24勝、秋季9勝で計33勝)、戦後は大映監督を途中退任した1954年の三浦方義、阪神を二度目のリーグ優勝に導いた1964年のバッキーがそれぞれ29勝を上げたのが最多となっている。

村山実

阪急監督時代は、同時期のパ・リーグで稲尾和久(西鉄)や杉浦忠(南海)などが毎年30勝以上をマークしてチームの優勝に貢献していたのを横目に、藤本は「30勝投手を出すのは監督の恥」と公言してはばからず、米田や梶本を酷使することはなかった。

1957年(昭和32年)からの3年間(杉浦はデビューの1958年から3年間)で米田、梶本と稲尾、杉浦の登板数・投球回数合計を比較すると、稲尾と杉浦がともに3年間で1000投球回を超えたのに対し、米田は936回1/3、梶本も801回2/3にとどまっている。

この間、稲尾が全登板数の約57%、杉浦も約45%で救援のマウンドに立っていたのに対し、米田は約32.7%、梶本は約34.6%にとどまっており、登板数や投球回数以上に、連投による負担が軽減されていた。

中3日の登板間隔で夏バテ知らずの阪神タイガース投手陣

1961年(昭和36年)途中、阪神の監督に就任した藤本は、ローテーション制をさらに発展させ、当時投手陣の両輪だった小山正明(1934~)と村山実(1936~98)をほぼ先発に専念させ、三番手以降に渡辺省三(1933~98)、本間勝(1939~)、石川緑(1934~2004)ら10勝前後の投手を配置することで、中3日の登板間隔を確保した。

阪神時代のヘッドコーチだった青田昇の著書によれば、シーズン初めに長い巻紙に筆で上段に日付、下段に「コ(小山)、ム(村山)、…(渡辺、本間など)、休、コ、ム、…、休」と1年分のローテーションを記入して、雨天などによる日程の変更以外、その順番を崩すことはなかったという。

当時は三原脩、鶴岡一人、川上哲治ら他球団の監督たちが継投策を多用し始めていたが、藤本は先発・完投にこだわり、特にエースの小山と村山は先発試合の半分以上を完投させていたため投手陣全体の消耗度が低く、継投策で酷使された他球団の投手陣が夏場に調子を崩していったのを横目に、阪神投手陣は夏バテとは無縁だった。

鶴岡一人

藤本は東京鉄道局勤務時代、統計係として国鉄各駅の乗降人員を集計整理する業務を担当したことがあり、この経験がローテーション制の確立に役立ったとも言われている。

もちろん、1年を通じてローテーションを維持し、先発投手を最後まで投げさせるための忍耐力は大変なもので、青田によれば、藤本は先発投手が打たれ始めるとベンチから姿を消し、ピンチを脱出するのを見計らって再び姿を現すことが何度もあったという。ピンチの場面で投手交代の権限を持つ監督がいないと困るではないかと青田が文句を言うと、藤本はこう答えた。

「ワシがおると、どうしても投手を代えたくなる。代えるべきでないとわかっていても、代えたくなる。ワシはおらん方がええ。ワシさえおらなんだら投手交代はできんからな」

ベンチから姿を消している間、藤本は一塁ダッグアウト裏の関係者食堂喫茶室でコーヒーを飲んでいたという。

「自主性」を重視した選手指導・育成

プロ野球の監督は知識と経験によって蓄積されたさまざまなアイデアを駆使して試合に勝つためのあらゆる策を講じるとともに、選手を指導・育成するという大事な役割も担っている。藤本はこの点でも日本のプロ野球界にさまざまな先鞭をつけた。

藤本は巨人の監督に就任したあと、試合の前や合宿での練習後によく「ミーティング」を開催した。前述の「茂林寺の猛練習」では、宿舎の大広間に夕食後選手たちを集めて野球のセオリーやルールなどを教え、時には選手を相手にプロ野球人としての心構えを説くこともあった。

小山正明

戦後のパシフィック・大陽、金星・大映、阪急時代はグラウンドでの簡単なミーティングにとどまっていたが、1961年途中に阪神の監督に昇格すると、試合前に甲子園球場ではロッカールームで、遠征先では宿舎で、毎日ミーティングを開き、「監督としての立場で、技術的なもの、基礎的なものと、全般にわたって指導」(自伝より)が行なわれた。

その効果はすぐに表れ、前任監督の金田正泰(1920~92)のもとで勝率.373で最下位を迷走し、対巨人戦でも2勝10敗と大きく負け越していたチームが、藤本の就任後は巨人に10勝15敗と盛り返すなど、3位国鉄にわずか1.5ゲーム差の4位でシーズンを終えている。

この後半戦における巻き返しが選手たちに自信を植えつけ、エースの村山などから「早く練習を始めましょう」と要望されたこともあり、翌1962年は年明け間もない1月13日から練習を開始した。

藤本定義

「茂林寺の猛練習」があまりにも有名になったため、藤本には選手にスパルタ教育も辞さない監督のイメージがつきまとったが、前述のように茂林寺の合宿における練習は確かに激しい内容だったもの決して「シゴキ」ではなく、試合においても練習においても選手に「プロとしての自覚・自主性」を促すという点で、監督としての姿勢は終始一貫していた。

1941年、この年のシーズン終了後に入営が決まっていた正捕手・吉原正喜の後釜として、藤本は投手の楠安夫を充てることにした。

吉原、川上、千葉と同期入団だった楠は、前年まで投手として通算7勝3敗の成績を残していたが、キャッチャーとしての経験は10試合しかなく、うち9試合は途中出場だった。そのため、当初はコンバートを辞退していたが、藤本に「サインは全部ベンチから出すから」と説得されて渋々転向を受け入れた。

「ところがいざ試合になって、サインを見ようとベンチを見ると、藤本監督はソッポを向いて俺と視線を合わせようとしないんだよ。『たとえ即製でもプロのキャッチャーなら自分で配球ぐらい考えろ』って突き放すんだよね。あれには参りましたよ」と、生前の楠は苦笑しながら当時を回想していた。

江夏豊に英才教育をした藤本

一方、1967年(昭和42年)にドラフト1位で阪神へ入団した江夏豊に対しては、シーズン途中に負けが込んだ時期があっても二軍には落とさず、登板のない時には自分の横に座らせて、マウンドにいる味方・相手投手が1球投げるたびに、状況に応じたピッチングや打者との駆け引きなどを教え込む英才教育を施したが、これは江夏が教えたことをすぐに練習や実戦で試してマスターする能力に長けていたことを見込んでのことだった。

江夏豊

藤本は選手の育成・指導で監督が果たす役割について、自伝で次のように語っている。

「スカウトが優秀な素質のある選手をとってくれる。その選手にコーチが技術を教える。素質のない選手は、どんなに技術を教えても、三割打つことはできん。三割打つのには、素質が必要だ。しかし三割打つ素質のある者がはいってきたとき、三割打たせることができるかどうかには、監督が大きな役割を持っている。素質のある選手であっても、やる気がなかったあら、素質のない者と同じだ。やる気を出させるには、その者の持っている心を動かさねばならぬ。心を動かさねば、素質を引き出すことはできない。選手に心を動かして、やる気を出させるのは監督の仕事である。(中略)心が引き出されていなければ、技術も身につかない。監督がそれをやらせるのには、選手個々のすべてを知っていなければできない」

(「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)

平素の藤本は温厚な紳士で選手の面倒見も良かったが、ユニフォームに袖を通してグラウンドに立つと別人のようだったと、1941年に投手として高松商から入団した多田文久三(1921~2006)は語っていた。

「選手がエラーや凡打を重ねるなど不甲斐ないプレーをしていると、ベンチに立っている藤本さんはいきなりコンクリートの床をスパイクで蹴って、火花を散らしながら『何をもたついているんだ!』と檄を飛ばすんです。その時の表情がまたたいへん凄味がありましてね。私たちは何度もそれに目覚めさせられたものです」

バントが少ない藤本野球

作戦面ではバントを嫌い、球が飛ばなかった戦前でも攻撃面で「ビッグイニング」を志向するなど強気の姿勢で知られた。千葉茂はデビュー当時、一番・三原、二番・水原のあとの三番を任させることが多く、二人が出塁した場面で打席に立つと、藤本からはバントのサインが出ず、引っ張って併殺打を打てば三原、水原にベンチで叱責されるため、窮余の策として代名詞となった「右打ち」を習得したほどだった。

また、審判への激しい抗議も有名で、通算退場回数7回は、長い間、選手、監督を含めた日本プロ野球における最多処分記録だった。

阪神タイガースの監督に就任

1959年途中で阪急の監督を退いた藤本は、翌1960年、阪神の戸沢隆球団代表や金田正泰監督からの度重なる懇願を受け、コーチとして阪神に入団する。

セ・リーグ球団のユニフォームを着るのは初めてであり、何と言っても阪神は巨人時代に何度も覇権を争ったライヴァルだっただけに、当初は金田の要請を固辞し続けたが、早大野球部、巨人を通じての恩人だった市岡忠男や、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長の勧めもあり、就任要請を受け入れた。

実は阪神が藤本にコーチ就任を要請したのは鈴木の推薦によるものだったことを藤本は後日知ることになる。

当時、セ・リーグは日本シリーズでパ・リーグに4連敗中で、阪神も1947年(昭和22年)の優勝を最後に、2リーグ分裂時の主力選手引き抜きや度重なる内紛が原因でペナントから遠ざかっており、セ・リーグの看板カードとしての巨人・阪神戦も色あせかけていた。

鈴木はセ・リーグ及び阪神を再興するための「切り札」として、藤本の阪神入りを思いついたのだが、監督としての金田が経験不足で、阪神も監督交代を繰り返していたことから、おそらく藤本が近い将来阪神の采配を振るうことを見越していたと思われる。

藤本自身、戦後の監督生活は14シーズンでAクラス(3位)4回、勝ち越し5回、優勝ゼロと、不本意な成績に終始して、巨人での栄光も半ば忘れかけられており、マスコミからは「麒麟も老いては駑馬に劣る」──どんな英雄や優れた人でも年をとれば凡人以下と揶揄されるほどだった。

監督を務めたパシフィック・大陽、金星・大映、阪急の3球団が、いずれもオーナーの道楽の域を出なかったり、親会社からの支援が不十分だったりした不運もあり、阪急を退団した時点では球界からの引退も決意していた。

川上哲治を「テツ」と呼び捨てにし「巨人コンプレックス」を払拭

藤本は戦後の3球団における監督生活と、阪神入団後に生まれた心境の変化について、自伝で次のように回想している。

「(大陽、大映、阪急の3球団では)会社の首脳から、選手の一人一人までが『さあ、やるぞ』という団結した強い力になっているというところがなかった。何か一本筋が足らんところがあって、ともすれば、それが燃え上がろうとする意欲にブレーキをかけていた。
阪神へはいって、今まで眠っていた野球への情熱がかきたてられ、身の引きしまるような思いがした。かつてライバルとして覇権を争った阪神である。こんどは逆にそのチームの中に身を置いて巨人に立ち向かっていく。そう思うと、私の地は久しぶりに湧き立つのであった」

(「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)

正式に阪神を率いることになった藤本は、まずチーム内に充満していた「巨人コンプレックス」の解消に腐心した。

同じ年、水原茂に代わって巨人の監督に就任した川上哲治は、前述の通り、現役時代、藤本によって投手から打者にコンバートされた「恩師」であり、藤本はこの立場を利用して、甲子園や後楽園で顔を合わせるたびにわざと「川上」「テツ」と呼び捨てにした。

また1967年に入団した江夏が監督推薦で出場したオールスターでセ・リーグの監督を務めていた川上によって3連投させられると、後半戦最初の巨人戦で川上をベンチに呼びつけ、「テツ! ユタカを乱暴に使いやがって! この馬鹿野郎!」とすさまじい剣幕で怒鳴りつけ、その川上が直立不動のままだったのは有名なエピソードだ。

当時阪神の主力だった吉田義男、小山正明、村山実らは、ちょうど「赤バットの川上」「打撃の神様」と呼ばれた川上の全盛期を知っていた世代であり、江夏にとっては自身の憧れであり好敵手でもあったONの「上司」だったが、その大野球人を藤本が自分たちと同じように呼び捨てにすることに驚いた。

川上だけではない。前年の1960年に西鉄から大洋の監督に転じて最下位からの日本一を成し遂げた三原脩も藤本の元部下であり、同じように「三原」と呼び捨てにされても、藤本の前ではまるで呼ばれると、最敬礼の態度で接している。

そんな光景を見ているうちに阪神の選手たちは「藤本のお爺ちゃんは大物なんだ」「その監督に率いられる自分たちも決して巨人に劣ってはいないのだ」と自信をつけ、練習や試合への取り組み方が前向きになっていった。

阪神を率いて1年目でチームに変化が

この年の阪神は60勝67敗3分、勝率.473で4位だったが、藤本就任後の88試合では47勝43敗1分、勝率.522と勝ち越し、先に紹介した通り、2勝10敗だった巨人戦でも、藤本が率いてからは8勝2敗と勝ち越すなど、監督交代は早くも功を奏し始めていた。

就任直後はミーティングの開始時間に選手が遅刻して練習時間が遅れることもあったが、藤本はあえて何も言わず本人の自覚を待ち、ほどなく遅刻する選手は皆無となった。

キャンプでもチームが同じ目的を持って練習に取り組み、小山、村山、吉田、三宅秀史といった投打の主力たちが若手をけん引するムードが醸成され、選手たちは酒や遊びを控えて試合に臨むようになるなど、藤本と阪神──ともに栄光から遠ざかっていた者同士が巡り合ったことでチームにポジティヴな変化がもたらされた。

阪神タイガースをセ・リーグ初優勝に導く

1962年(昭和37年)、就任2年目の藤本は、3年前に現役を引退して当時は解説者を務めていた教え子の青田昇を実質的なヘッドコーチに招いた。

青田昇

現役時代はその豪快なバッティングと奔放な言動から「じゃじゃ馬」の異名で知られていた青田だが、巨人入団時からの付き合いだった藤本は、中学時代はスポーツばかりでなく学業も優秀で、明晰な頭脳を持ち、細やかな心配りのできる人柄であることを熟知しており、初のコーチ業だった青田にバントやヒットエンドラン、盗塁など打者に対するサインをすべて委ねた。

青田昇と共に阪神の『優勝ライン』を検討

青田はコーチ就任要請を受けると、阪神のチーム編成を細かく分析し、様々な角度から優勝の可能性を探った。

投手陣は小山、村山の二枚看板を中心に磐石であり、内野陣も日本プロ野球史上最高のショートである吉田を中心に、二塁・鎌田実、三塁・三宅秀史と12球団一の守備力を誇っていたが、打撃は当時のセ・リーグが投高打低の傾向にあったとはいえ、特に巨人と比べると見劣りが著しく、1961年はチーム打率.244でリーグ1位だったものの、長嶋茂雄に匹敵する絶対的な中心打者を欠いていたため、本塁打数は巨人の89本(リーグ1位)に対して80本(2位)、総得点も巨人の406(1位)に対して382(4位)と効率の悪さが際立っていた。

ただ、この時期はちょうど野球界全体が世代交代の時期に差し掛かっていたこともあって、セ・リーグでは1960年(昭和35年)の大洋(.554)、1961年の巨人(.569)と2年続けて優勝チームが勝率5割台だった。

もし阪神が優勝を争うとしたらこの2チームだったが、巨人は打線が長嶋頼みで投手陣も絶対的なエースを欠き、大洋もチーム編成に厚みがない。

青田の結論は、「優勝争いが5割6、7分の戦で争われるようなら阪神にもチャンスはある。巨人あたりに6割以上の勝率で突っ走られたら、それを追うだけの力は阪神にはない」というもので、藤本の分析もほぼ一致していた。

藤本と青田

実際、1962年のペナントレースは藤本や青田が予想した通りの展開になった。

エースの秋山登(同年26勝)を中心に、左腕の鈴木隆(14勝)、新人の稲川誠(12勝)を擁する大洋が4月末から球宴前まで首位を走り、これを巨人と阪神が追う展開となる。

三原監督は相変わらず継投策を多用し、秋山をはじめとする主力7投手は実に全試合数の約72パーセントでリリーフ登板があったのに対し、小山、村山ら阪神の主力6投手が救援のマウンドに立ったのは約47%で、秋山の救援率76.4%に対し、小山は14.0%、村山も33.3%にすぎなかった。

前述の通り、ローテーションを堅持し、先発投手もできるだけ長いイニングを投げさせて救援投手に負担がかからないよう藤本が心がけたことで、夏場に大洋の投手陣がスタミナ切れを起こしたのを横目に、阪神投手陣は調子を落とすことなく、球宴前に阪神は大洋を抜いて首位に立った。

巨人も新人の城之内邦雄が24勝を上げ、7月には王貞治が一本足打法に転向して本塁打を量産し始めたが、開幕の阪神戦で小山、村山にルーキーの城之内、柴田勲をぶつけて連敗してつまずき、8月には投手コーチの別所毅彦が遠征先で禁止されていた飲酒をしていた選手たちを殴打したとされる「別所事件」が発覚して退団に追い込まれたのを境に優勝争いから脱落していった。

9月6日に阪神は三宅が試合前のキャッチボールで小山の投球を左目に受けるアクシデントで欠場に追い込まれてから6連敗を喫し、25・26日の直接対決を小山、村山で落として大洋に優勝マジック1が点灯したが、大洋はそのあとの巨人戦に3連敗し、逆に阪神は国鉄戦で3連勝して逆転。10月3日の広島戦で小山が完封勝利を収めて、1リーグ制時代の1947年以来15年ぶり、セ・リーグでは初となるリーグ優勝を果たした。藤本にとっても巨人時代の1942年以来実に20年ぶり、戦後4球団・16年目にしてようやくつかんだペナントでもあった。

1964年・阪神タイガース2度目の優勝

その後、藤本は小山正明とのトレードで東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)から獲得した山内一弘(1932~2009)を四番に据え、1962年にテスト入団で獲得したジーン・バッキー(1937~)が29勝を上げて最多勝・沢村賞に輝いた1964年に二度目のリーグ優勝を果たす。

1968年、阪神は入団2年目の江夏豊(1948~)が25勝、大リーグ記録を上回る年間401奪三振を達成したほか、村山が15勝、バッキーも13勝をマークするなど、投手陣がチーム防御率リーグ1位の2.67を記録し、前半戦に首位巨人から8.5ゲーム差の4位から、8月に19勝2敗の快進撃を見せて巨人を追い上げる。

ジーン・バッキー

9月初めの直接対決では3勝1敗と勝ち越してゲーム差ゼロの2位まで迫ったが、村山が前年から右腕血行障害の影響で完投数を減らし、バッキーも9月18日、甲子園での巨人との直接対決の際、王に対する危険球をきっかけに起こった乱闘騒ぎで右手を複雑骨折して登板不能となり、チーム打率(.229)リーグ5位、総得点(432)同5位だった打線の弱さもあって、最後は5ゲーム差の2位に終わった。

この年、すでに64歳になっていた藤本は、痛風などの持病を抱えていたこともあり、エースとして独り立ちした江夏を置き土産に、29年間・31シーズンに及んだ監督生活に別れを告げた。

「先駆者」としてのプライドと自負

戦前の巨人で藤本の薫陶を受けた多田文久三は、生前の取材で次のように語っている。

「私は選手として三原さん、水原さんのもとでもプレイしましたが、今でも最高の監督は藤本さんだと思っています。あの人は何もないところからプロ野球における監督術を自ら作り上げ、選手に強いプロ意識を植えつけることで、プロ野球の社会的地位まで確立したからです」

藤本が「プロ野球監督」という仕事にどれほどの誇りと自負を持っていたかを物語るエピソードがある。阪急監督在任中の1959年、機構からプロ野球創立25周年を記念しての表彰を打診され、一度は内諾したもの、選手と一緒の表彰だと知ると、一転してこれを辞退したことがあった。

「私は(巨人の監督に就任した昭和)11年以来、監督一本でやってきた。(プロ野球でのキャリアが)はじめから監督というのは私しかいない。選手から監督になった者、あるいは昔選手で今コーチをしているという者とは、私の立場は同一ではない。いっしょの表彰というのは受けるわけにはいかないのである。
(中略)私は、何も私が名監督であったとか、監督としいての手腕が抜群であったとか自慢しているわけではない。しかし監督という仕事は、家を省みず、心身をすり減らす大変な仕事だ。生やさしい気持ちではとうていやっていけない。自身と見識を持っていなければ、選手を掌握し、会社側とうまくやっていくことはできない。表彰の問題ぐらいいいではないかというかもしれないが、そういうけじめをはっきりさせるところから、監督の仕事への認識というものも生まれてくるのだと思う」

(「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)

引退から6年後の1974年(昭和49年)、古希を迎えたこの年に、藤本は球界への多大な功績を認められて野球殿堂入りを果たした。

そして最後の教え子だった江夏豊が、移籍した広島でリリーフエースとして1979・80年の連続日本一に貢献したのを見届けると、1981年2月18日、プロ野球の発展に捧げた76年の生涯を閉じている。

最後に、もうひとつ藤本が生前残した言葉を紹介して、この稿を締めくくることにする。

「優秀な選手だからといって、必ずしも監督になれるとはかぎらない。監督には監督としての天分が要る。大きくいえば人に将たるの器でなければ監督には向かない。下士官は下士官だけのものである」

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

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