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巨人と阪神に優勝をもたらした男~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義②

 2017/12/03 プロ野球
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実質的な巨人の初代監督となった藤本定義。
巨人の第一次黄金期を作り上げていったが道のりは平坦ではなかった。
戦争で主力選手が抜ける中、自らもスカウト活動を行ない戦力を整えた。

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藤本が重視した「プロの体面」

藤本定義のプロ野球における監督生活は前述の通り、5球団で史上最長の29年間・31シーズン(1937・38年は春秋2シーズン制)に及んだが、その間も常にプロ野球界とプロ野球人の社会的地位の向上に腐心し続けた。

藤本が巨人で采配を振るった最後の年となった1942年(昭和17年)途中、滝川中学を中退して巨人入りし、戦後は1962年(昭和37年)年に阪神監督を務めていた藤本の要請でヘッドコーチに就任した青田昇(1924~1997)は、生前「あの爺さんはプロ野球の『体面』をすごく大事にする人やった」と語り、それにまつわる興味深いエピソードを証言している。

南海軍の新人・清水秀雄投手にプロの洗礼

1940年(昭和15年)、南海軍(現福岡ソフトバンクホークス)に、明治大学で通算17勝を上げて1937年(昭和12春)からのリーグ4連覇に大きく貢献した清水秀雄(1918~64)年が入団した。

清水秀雄

その獲得にあたっては当時の南海電鉄本社社長の年収に匹敵する5000円(現在の貨幣価値でおよそ1300万円)の契約金が用意されたとも言われ、連盟では球団間で支度金の上限が3000円に定められていたため、ペナルティーとして清水の選手登録が延期となる騒ぎになっていた。

その処分が明けた3月15日、甲子園球場での対イーグルス戦でさっそく開幕投手に起用された清水は、左腕からの剛速球とカーブを武器に被安打5、10奪三振で初登板完封勝利を演じ、期待に違わぬデビューを果たした。

この超大物新人に対して藤本は、東鉄野球部監督時代に沢村を徹底的に観察したのと同様に綿密な投球データを集めて丸裸にし、ミーティングや打撃練習で清水対策を講じて、3月20日、西宮球場でデビュー2試合目の清水を迎え撃った。

スタルヒン

巨人は開幕からの2試合をヴィクトル・スタルヒン、中尾輝三(戦後碩志と改名)で落としたあと、18日の南海戦でスタルヒンが完封勝利を上げ、中1日で清水との初対決を迎えたが、この日の先発は中尾ではなく、2年目の楠安夫だった。

これはあくまでも推測だが、あるいは藤本は清水と同じ荒れ球の左腕投手だった中尾を打撃投手として前日の練習に使っていたのかもしれない。結果は巨人打線が清水から8点を奪い、途中から楠をリリーフした川上哲治が勝利投手になっている。

川上哲治

ちなみに清水はこの試合を含め巨人戦に計3試合登板したが、いずれも敗戦投手となり、シーズン通算では308回で270奪三振、防御率1.75だったものの、味方打線の援護に恵まれなかったこともあり11勝23敗と大きく負け越している。

青田によれば「世間がどんなに六大学をもてはやそうと、実力では職業野球が一番なんだ」と選手に言い聞かせていた藤本は、時に自分のチームの選手さえ「プロ野球の体面」を維持するために利用したという。

プロ野球こそ実力ナンバーワンだとこだわった藤本

1942年(昭和17年)9月7日、戦況の悪化で明大を繰り上げ卒業して巨人入りした藤本(中上)英雄(1918~97)も、同年春のリーグ戦を最後に実戦から遠ざかり調整が不十分だったにもかかわらず、「味方とは言え、本来ならまだ大学生の新人にプロが軽くひねられてはいけない」と、ぶっつけ本番に近い形で9月27日、後楽園での対大洋軍(東京セネタースの後身。のちの大洋ホエールズ・現在の横浜DeNAベイスターズとは無関係)戦で初登板のマウンドに送り出している。

藤本英雄

藤本監督の「目論見」通り、藤本英雄は3点を失い、日本名「須田博」への改名を事実上強要されたスタルヒンのリリーフを仰いだものの、味方打線が大洋のエースで「鉄腕」の異名を取った野口二郎(1919~2007)から8点を奪って勝利投手となり、そのあと閉幕まで無傷の10連勝を達成して、監督の思惑を大きく裏切る大活躍を見せている。

野口二郎

プロ野球選手会を発足させ初代会長に

またパシフィック(のち太陽・大陽・松竹ロビンスと改称後、1953年(昭和38年)に大洋と合併して「大洋松竹ロビンス」となり消滅)監督に転じていた1946年(昭和21年)には、選手・監督などユニフォーム組の待遇改善と地位向上を図るため選手会を結成して自ら初代会長に就任している。

パシフィック時代の藤本

その背景には戦後再開されたプロ野球に暗躍した「賭け屋」の存在があり、選手を買収して八百長試合を仕掛けるケースが続出したため、「選手の最低生活を保障して、安心して野球をできるようにすることが、賭け屋との関係を断つことにつながる」と、藤本が鈴木龍二日本野球連盟会長(のちセ・リーグ会長)に進言し選手会結成に至っている。

のちに選手組合へと発展したプロ野球選手会は、2004年(平成17年)のいわゆる球界再編騒動で史上初のストライキを行ない、オリックスと合併した近鉄に代わる新球団楽天の結成を促し、2リーグ12球団制の存続に大きく寄与したが、藤本がもし戦後の混乱期に選手会を旗揚げしていなければ、プロ野球は縮小・衰退の道をたどっていたかもしれない。

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巨人歴代優勝監督中最高の勝率

藤本は日本プロ野球で通算1000勝以上を上げた監督のなかで唯一、戦前の職業野球で指揮を執った経験がある。

藤本の監督生活は巨人(1936~42)、パシフィック・太陽(1946・47)、金星・大映スターズ(1948~56)、阪急(1957~59)、阪神(1961~68)の5期に分かれ、この間キャリアが中断されたのは戦時中の1943年からの3年間と1960年の計4年に過ぎない。

1960年は阪神のコーチを務めているので、戦後は1968年の勇退までユニフォームを着続けたことになる。

5球団のうち、巨人、阪急、阪神での通算勝敗で勝ち越している。

巨人での420勝は阪神時代(514勝)、もっとも長い9シーズン在籍した金星・大映時代(458)に次ぐ数字だが、勝率は.720と高く、1938年秋から退任する42年まで5シーズン連続で勝率7割以上に及び、巨人の歴代優勝監督である三原修(のち脩に改名1947~49/勝率.580)、水原茂(1950~60/.662)、川上哲治(1961~74/.591)、長嶋茂雄(1974~80、93~2001/.538)、王貞治(1984~88/.589)、藤田元司(1981~83、89~92/.588)、原辰徳(2002~03、05~15/.571)をいずれも上回っている。

戦前、職業野球の公式戦試合数が少なかったとは言え、驚異的な数字と言えるだろう。

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巨人軍との決別

藤本が巨人で指揮を執っていた時代の職業野球は、戦後から現在に至るまでのプロ野球と比べてさまざまなハンディを背負っていた。

粗悪な使用球は投打のバランスを著しく欠いた「投高打低」の原因を生み出し、何よりも大日本帝国憲法で男子の兵役が国民の義務として課せられていた時代だっただけに、プロ野球選手のほとんどが兵役年齢に重なり、長期にわたって固定したメンバーでペナントレースに臨むことが不可能だった。

景浦将

 実際、1937・38年に年度優勝を逃したのも、タイガースが西村、松木、景浦、御園生など主力選手を揃えていたのに対し、第2回日米野球から参加していた三原、中島、永沢、沢村などが相次いで兵役年齢を迎えて入営したのが大きな原因だった。

沢村栄治

それでも巨人は数年先のチーム編成を見越して、他球団に先駆けた全国的なスカウト活動を展開し、呉波(のち昌征に改名/台湾・嘉義農林)、平山菊二(下関商)、川上、吉原正喜(熊本工)、千葉茂(松山商)、楠安夫(高松商)、中尾(京都商)、広瀬習一(大津商)、青田、藤本らの有望な新人選手を次々と補強し、1939年(昭和14年)からリーグ5連覇を果たしている。このスカウト活動には藤本も関与し、監督業の傍ら、試合の移動日やシーズンオフなどを利用して、自身も選手獲得のため全国を奔走していた。

生前筆者が取材した楠安夫は、巨人は市岡球団代表の早大野球部OBとしての人脈を利用して全国のアマチュア野球・学校関係者などからさまざまな情報提供を受けていたと証言している。

また藤本の自伝によれば、実際のスカウティングは藤本と鈴木惣太郎が分担して行なわれており、特に「花の(昭和)13年組」と呼ばれた1938年入団の中学卒選手では、千葉、楠が藤本、川上、吉原が鈴木の担当だったという。

千葉茂

1941年8月に社会人野球の大津晴嵐倶楽部(旭ベンベルグ=現旭化成の野球チーム)から巨人入りした広瀬習一(1922~44)も、大津商に在学していた1939年の時点で自ら学校に足を運んで入団交渉を行ない、2年越しで獲得に成功した選手だった。広瀬は1941年に途中入団ながら8勝、翌1942年は21勝6敗、勝率.778で最高勝率投手となり、両年のリーグ優勝に大きく貢献している。

広瀬習一

スカウト活動も行った藤本

ちなみに、藤本は監督生活の晩年になってもしばしばスカウトに同行してアマチュア野球の試合に足を運び助言を与えており、阪神時代には大阪学院大高校のエースだった江夏豊のピッチングを見て、球種がストレートしかなかったにもかかわらず捕手のサインに首を振って相手打者に他の球種もあるのではと思わせる「野球頭脳」の良さを見抜き、ドラフトでの1位指名を決めている。

藤本も加わった巨人のスカウト活動は、職業野球が長期1シーズン制に移行した1939年のリーグ優勝として実り、スタルヒンが現在もプロ野球歴代1位タイのシーズン42勝を上げ、藤本によって前年秋に打者へ転向していた川上が19歳で史上最年少の首位打者に輝いたこの年から、チームは5連覇を達成した。

実はこの年の初め、藤本はフロントに辞表を提出している。自伝によれば直接の原因は自分よりも主将の水原に多くのボーナスが支払われたことにあったという。

フロントとの軋轢

当時、藤本の月給は家賃補助を含めた250円で、教員の初任給が50円だった時代、一般の給与相場に比べればはるかに厚遇だったものの、たとえば自身がスカウトして獲得した選手が、給料の多くを実家への仕送りに割いて腹を減らしているのに気付けば食事に連れ出したり小遣いを渡したり、彼らの家族が上京した際には東京見物をさせたり土産を渡したりと、監督業に伴う毎月の支出は給料では賄いきれず、夫人の実家から借金をすることもあった。

フロントはそれを知っていながらその労苦に報いるための十分な報酬を支払わず、スター選手ばかり厚遇しているとの抗議の意味で突きつけた辞表だった。

このほかにも藤本の自伝や、巨人の取締役だった野口務が残した当時の業務日誌などには、藤本とフロントとの間で数々の軋轢があったことを示す記述が見受けられる。

中島治康

野口の日誌によれば、1941年のシーズン中には、二度目の出征が決まった沢村栄治の送別会で、口論となった球団マネジャーに殴打された藤本が采配をボイコットし、水原が監督代行を務めるという事件も起こっている。

一職員に過ぎないマネジャーが、酒の席とは言え自分を殴ったことは、フロントのトップである市岡の威光を笠に着たものと藤本が受け止め、より態度を硬化させたようだ。

この時はフロントがマネジャーを退社させ、藤本を球団取締役に加えるなどの慰留に努め、半月ほどでチームに復帰している。

だが、同年12月8日の太平洋戦争勃発と、その後の戦況悪化でチームと職業野球界の展望が不透明になったこともあり、翌1942年に4連覇を果たすと、シーズン終了後に藤本は中島治康を後任に推薦して勇退し、二度と巨人のユニフォームを着ることはなかった。

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)

プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。

プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。


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