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巨人と阪神にペナントをもたらした男・~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義①

 2017/11/22 プロ野球
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巨人と阪神を「二股かけた」男

日本を代表する作曲家・古関裕而(1909~89)は、阪神タイガースの球団歌「大阪タイガースの歌」(現在は「阪神タイガースの歌」に改題。通称「六甲おろし」)と、読売ジャイアンツの球団歌「闘魂こめて」の両方を作曲したことで知られる。

東京オリンピックの入場行進曲や、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の大会歌「栄冠は君に輝く」を手掛けるなど、スポーツにまつわる数多くの名曲を生み出してきたキャリアの一環として、古関は「伝統の一戦」の形容詞で語られるライヴァルチームの球団歌を両方手掛けることになった。

その古関よりももっと大きな役割とスケールで、両球団を「二股かけた」人物がいる。巨人と阪神の監督をそれぞれ務め、ともに優勝に導いたのだ。

彼の名は藤本定義(1904~81)。

戦前は草創期の巨人軍を率いて1939年(昭和14年)からの第1期黄金時代をもたらし、戦後は阪神を1962、64年(昭和37、39年)と二度のリーグ優勝に導いた人物だ。

藤本こそ、日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」である。

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巨人の実質的な「初代監督」

藤本定義がプロフェショナル監督としての第一歩を踏み出したのは1936年(昭和11年)、巨人の監督に招聘されたことに始まる。

東京巨人軍(大日本東京野球倶楽部/現読売ジャイアンツ)の「初代監督」については、1934年(昭和9年)秋の日米野球と、翌35年(昭和10年)の第1回北米大陸遠征で指揮を執った三宅大輔(1893~1978)を初代、翌年の第2回北米大陸遠征で監督を務めた浅沼誉夫(1891~1944)を二代、1936年(昭和11年)5月に就任した藤本を三代とする解釈があり、1985年(昭和60年)刊行の公式球団史「東京読売巨人軍五十年史」もこの数え方を採用していたが、一方で1936年にスタートした日本職業野球連盟の公式戦で初めて采配を振るったのは藤本であり、三宅と浅沼には巨人監督として公式戦での勝敗記録がないため、現在では藤本を「初代」とする考え方が主流で、2010年(平成22年)刊行の「読売巨人軍75年史」では代数が明記されていない。

また元早稲田大学野球部第二代監督で、読売新聞運動部長でもあった市岡忠男(1891~1964)が日米野球から「総監督」の地位にあったが、この役職は現在の「ゼネラルマネジャー(GM)」に相当するものであり、市岡はユニフォームを着て選手への技術指導は行なうこともあったが、実際に試合で指揮を執ったわけではなく、間もなくフロントの実質的なトップである球団専務(代表)に昇格している。

こうした実情を踏まえたうえで、藤本を巨人の「初代監督」として数えることにする。

巨人に勝ち越した実業団時代の藤本定義

第1回北米大陸遠征(1935年2月~6月)を終えて帰国した巨人は、9月から国内遠征を行ない、全国各地の実業団チームを相手に40試合を行ない36勝3敗1分と「プロ」の実力を見せつけたが、熊本鉄道管理局に1敗、東京鉄道管理局には1勝2敗と負け越している。この東鉄(全大宮)を監督として率いていたのが藤本だった。

沢村栄治を攻略した藤本

東鉄は10月22日に静岡・草薙球場で最初に対戦した際は0対1で惜敗していたが、藤本はそのあと他チームと対戦中の巨人をひそかにネット裏から観察して綿密なデータを取り、エース沢村栄治(1917~44)の攻略法を練って、11月3日にホームの埼玉県大宮球場に巨人を迎えた2戦目を4対1で制すると、巨人からの申し入れで11月9日に早大戸塚球場(のちの安部球場)で行なわれた3戦目でも、先発の青柴憲一とリリーフに立った沢村から計16安打を放って9対4と「返り討ち」にした。

第1回北米遠征から引き続き指揮を執っていた三宅はこの連敗の責任を問われる形で解任され、「育成・技術担当部長格」として選手への技術・生活指導を行なうとともに、国内遠征での対戦相手選定と交渉を担当していた浅沼が後任に据えられた。

慶応義塾大学野球部の実質的な初代監督であり、当時日本球界でも屈指の野球理論通として知られていた三宅に対し、早大野球部OBの浅沼は初代専任監督飛田穂洲直系の精神野球信奉者で、主力選手との軋轢が絶えなかった。

さらに第1回北米大陸遠征時に約束されていた選手への手当の支払いが帰国後も行なわれず、遊撃手の苅田久徳(1911~2001)が選手を代表してフロントと交渉にあたったところこれを嫌われ、病気のため秋の遠征を欠場して療養中に「契約満了」を理由に解雇されるなど、誕生して間もない巨人は内紛に揺れている状態だった。 

さらに1936年の第2回北米大陸遠征(2~6月)の前に行なわれた合宿練習中、田部武雄(二塁手/1906~45)、水原茂(三塁手/1909~82)が中心となって、三宅前監督と苅田の復帰、浅沼監督の解任を求め、これが容れられない場合は北米遠征をボイコットするとの要求をフロントに突きつけるいわゆる「連判状事件」が起こっている。

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巨人軍監督・藤本定義が誕生

遠征は何とか実施されたものの、浅沼と選手たちとの対立は収まる気配がなく、球団は遠征中に藤本を投手の前川八郎、外野手の伊藤健太郎とともに東京鉄道局から引き抜いて浅沼の後任に据える人事を内定していた。

藤本は松山商業時代には三塁手、投手として1919年から4年連続で「夏の甲子園大会」の前身である全国中等学校優勝野球大会に出場し、早大野球部では1925年の復活早慶戦で先発投手を務めている。

卒業後は東京鉄道局に勤務して同社の野球部で活躍し、のちに監督として都市対抗野球ベスト4、全国鉄大会優勝などの華々しい球歴を誇っており、特に休日返上の猛練習で選手を鍛え上げ、東鉄野球部を短期間で強豪チームに育て上げた手腕を、早稲田時代の監督でもあった市岡に買われて巨人に招かれた。

この人事は、現在に至るまで巨人が外部から監督を招聘した唯一のケースであり、また1968年(昭和43年)の阪神を最後に29年、5チームに及んだ監督生活を勇退して以降、藤本は日本プロ野球史において最後のプロ選手経験のない監督でもある。

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巨人軍の内紛

巨人は第2回北米大陸遠征を42勝32敗1分の成績で終えて6月5日に帰国し、横浜港でチームを出迎えた藤本は、一行が乗船していた客船「平安丸」の船室で前監督浅沼と事務引き継ぎを行なった。

前年からのチーム内の不穏な空気は遠征中も収まることはなく、引き継ぎの最中、浅沼は「これからがたいへんだよ。うちの選手の中には、ゴロツキみたいなのもいるからね」と藤本に忠告を与えるほどだった。

巨人が遠征に出発する直前の2月5日には、巨人、大阪タイガース、名古屋軍、大阪阪急軍、東京セネタース、名古屋金鯱軍、大東京軍の7チームが参加した「日本職業野球連盟」が創立総会を開催し、4月29日からは巨人を除く6球団で「第1回日本職業野球リーグ戦」が甲子園球場で開催された。7月1日からは帰国した巨人を含めた全7球団が勢ぞろいする「連盟結成記念大会」が開催されることになっており、これに備えて6月16日から千葉県谷津球場で行なわれた夏季練習が藤本にとって巨人監督としての最初の仕事となった。

沢村栄治から不満の声

合宿が始まって間もなく、「連判状事件」の中心人物だった水原が6月22日、田部が7月8日に、それぞれ契約条項違反を理由に免職退社処分となった。しかも前年の苅田を含め、遊撃、二塁、三塁と内野のレギュラー、しかも後年揃って野球殿堂入りを果たしたほどの顔ぶれがこぞって不在となり、就任間もない藤本は、入団したばかりの白石敏男(広陵中/1918~2000)、筒井修(松山商/1917~90)、東鉄から連れてきた投手兼任の前川を後釜として育てる必要に迫られることになる。

合宿の初日、藤本は旅館の玄関に「門限九時、消灯十時、絶対禁酒」と大きな文字でしたためた張り紙を掲げ、東鉄野球部監督に就任した時と同じく、早朝から日没まで選手たちにノックの嵐を浴びせた。この藤本の姿勢に対し、特にエースの沢村ら北米大陸遠征を経験した選手たちからは不満の声が上がり、合宿の成果が出ないまま連盟結成記念大会に臨むことになる。

白石敏男

当然のことながら、東京、大阪、名古屋で開催されたトーナメントで巨人はいずれも準決勝にすら進めず敗退し、3大会を通じて2勝5敗と全くの不振に終わった。

チーム打率.230、総得点33はともに7球団中5位、守りでは初戦の名古屋戦で演じた5個を含め、ワースト3位の計19失策、沢村は4試合に登板して1勝1敗、防御率2.99ながら投球回18で実に9個の死球を与える荒れっぷりと、攻走守のすべてでいいところがなかった。

さらに7月21日からのタイガースとの九州・広島帯同遠征では6試合で2勝4敗、続く京城(ソウル)、満州(現中国東北部)遠征では現地の実業団チームを相手に17試合で14勝3敗だったものの、都市対抗野球の強豪だった大連実業団と大連満鉄クラブにそれぞれ1敗ずつを喫するなど、チームの雰囲気は一向にいい方向へ向かう気配がなかった。この時の様子を藤本の自伝から一部引用してみる。

「満州遠征中も、選手の行動は少しも改まらなかった。チームを建て直す武者修行であるはずなのに、遊山気分で、夜になると酒、女、バクチにふけっている。いくら口やかましく注意しても、少しもいうことをきかない。巨人軍は箸にも棒にもかからないチームだ。男子の生涯をかけて監督をやるチームではない、と、がまんにがまんを重ねていた私も、とうとう堪忍袋の緒を切った」

(藤本定義著「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)

藤本は遠征の途中、総監督として同行していた浅沼と、日米野球開催の功労者で球団顧問だった鈴木惣太郎(1890~82)に、口頭で辞任を申し出るほどだったが、帰国後に市岡からチームの全権委任を約束されて慰留されると、早大野球部の後輩で、第1回日米野球参加後に兵役と球団への不満から退団していた三原修(のち脩に改名/1911~84)年を自ら説得して助監督兼二塁手としてチームに復帰させ、彼を片腕に有名な「茂林寺の猛特訓」に臨むことになる。

「シゴキ」ではなかった「茂林寺の猛特訓」

1936年の日本職業野球連盟公式戦は、9月18日から開催の「第2回全日本野球選手権大会」からの再開が予定されていた。この大会で行なわれたリーグ戦(甲子園1・2次、上井草、洲崎)とトーナメント戦(名古屋、宝塚)から日本プロ野球の公式戦記録が起算されている(個人成績は「第1回日本職業野球リーグ戦」から起算)。これを前に巨人は9月5日から、群馬県館林市の茂林寺駅近くにあった分福球場に全選手を集め、「茂林寺の猛特訓」として知られる8日間の合宿を行なった。

「茂林寺の猛特訓」と言えば、名門巨人軍の礎となった「伝説」として今日まで語り継がれており、多くの資料で、藤本が連日ノックの雨を浴びせ、選手は血ヘドを吐きながら打球を追いかけ、その甲斐あって内紛でだらけきっていたチームが立ち直った……と紹介されている。だが茂林寺の合宿は決して「シゴキ」ではなかった。

最も重要な目的は、苅田、水原、田部が抜けた内野陣の強化にあった。

彼らの後釜となった白石、筒井は中学を出たばかりで、白石は俊足と強肩を買われて広陵中時代の一塁から遊撃へコンバートされた直後でもあり、連盟結成大会やタイガースとの帯同遠征、満州遠征では彼らの未熟もあって前述の通りエラーが続出して不甲斐ない戦いぶりの原因となっていた。

特訓の場所・分福球場

この合宿から巨人に復帰した三原も軍隊生活で約2年のブランクがあり、白石、筒井、投手と内・外野手を兼ねる前川、同じく東鉄野球部から連れてきた伊藤、早大野球部の後輩だった中島治康らを、藤本はノックバットが折れるのを防ぐためボールが当たる部分に絆創膏を巻き付け、一人200本の息をもつかせぬ連続ノックで連日選手たちを徹底的に鍛え上げた。

分福球場のグラウンド状態は悪く、右に左にと飛ぶ打球が小石に跳ね返って選手の顔にぶつかることもあり、前川の証言によれば、ノックの打球を正面で受けることを怖がった素振りに気付いた藤本に「ケツバット」で気合を入れられたこともあったというが「体罰」のレベルではなく、この反復練習の繰り返しが功を奏して、白石はのちに自身の代名詞ともなる「逆シングル」の技術を身につける。

沢村とスタルヒンにプロとしての自覚を促した

合宿のもう一つの目的は言うまでもなく、沢村やヴィクトル・スタルヒン(1916~57)など、投手陣を中心に藤本に反発していた選手たちに、猛練習を通じて「プロフェッショナルとしての自覚」を促すことにあった。

練習初日を前に藤本は東鉄野球部からの部下である前川と藤本を自室に呼び、「こんどの練習は、選手が倒れるか、わしが倒れるか、思い切って対決する。選手の中にはきっと不平をいい出すものが出るに違いない。しかし、お前ら二人は、ぶっ倒れてもわしについてきてもらいたい。巨人軍再建の犠牲になるつもりで頑張ってくれ」

(前出「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)

と固い決意を伝えている。

藤本は沢村ら「不平分子」に無理やり首に縄をくくりつけるようにして練習に参加させることはしなかった。

練習初日、外野で白石や筒井に浴びされる猛ノックに対し沢村らは「高みの見物」を決め込み、思い出したように軽いキャッチボールで時間をつぶすだけだった。

宿舎では夕食後に野球理論やルールなどを学ぶ講習会を行なったが、ミーティングが終わると聞こえよがしに後ろの席から「オレたちは中学生とは違うんだ。こんな無茶な練習ってあるかい。ま、体をこわさんように適当にさぼるんだな」と話し声が聞こえてきた。

合宿2日目も藤本の猛ノックは続き、白石はイレギュラーの打球を額で受けてコブを作り、前川はダイビングキャッチの際にグラブが外れて素手で打球を受け左手が真っ赤に腫れ上がった。それでもノックの雨は止まず、ついに白石と筒井、伊藤、前川が立て続けにグラウンド横の松林に駆け込んで反吐を吐いた。

その鬼気迫る様子を呆然と見つめていた「不平分子」をホームプレート付近に集めた藤本は、「練習がいやならしなくていい。その代わり、立って見物していろ。動くことは許さん」と言い渡し、練習を続けた。

ノックが終わって打撃練習に移ると、前川の投球が疲労から手許が狂い、白石の左こめかみを直撃した。顔半分が腫れ上がっても倒れることなくなお打席に立とうとする白石の鬼気迫る様子を見て、沢村やスタルヒンは次々と「監督さん、僕たちにも練習をやらせてください」と申し出てグラウンドに駈け出して行った。藤本はのちに自伝で「(自分は監督として)誠実、愛情、根気、この三つで選手に対峙してきた」と語っているが、まさにそれが沢村やスタルヒンの自覚を促した瞬間だった。

職業野球の地位を上げるために

その夜、藤本は選手たちを前にこう檄を飛ばしている。

「プロ野球はいま、つぶれるか存続できるかの瀬戸ぎわに立っている。つぶすのも存続させるのも、きみらの気構えひとつにかかっている。プロ野球を作ったのはそれぞれの会社の偉い人たちだが、それがファンの支持を得て存続できるかどうかは、われわれ現場の心構え次第だ。とくに巨人軍が強くなれるかどうかがカギだ。巨人軍が春(注・連盟結成記念大会)と同じような成績だったら、先の希望はない。われわれがせっかくプロ野球に生きようとする決心をしたのなら巨人軍をどうあっても強いチームにしなければならない」

(前出「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)。

藤本が監督としてプロ野球界に身を投じた目的は、まだ世間から「商売人野球」と白眼視されていたプロ野球の社会的地位向上と市民権の獲得であり、この演説はまさにそれを物語る内容だった。藤本は単に目先の試合に勝つことだけではなく、高度な技術を試合で観客の前で披露することが、プロ野球の発展につながると考えていた。

こうしてチームを掌握した藤本だが、自伝によると、合宿を視察に来た浅沼と鈴木があまりの猛練習ぶりを危惧して、一度球団事務所に呼び出され、現場の全権委任を約束したはずの市岡を含めた三人に、「選手は球団の財産なのだから、あまり無茶な練習をしてつぶしてもらっちゃ困る」と注文を付けられたことがあった。

これに対し藤本は、「私は巨人軍のためばかりでなく、プロ野球全体のために猛練習をやっているのです。監督としてまかされている以上、私の信念にしたがってやらせてもらいます。もし、どうしても私のやり方が悪いというのなら、この場でやめさせてもらいます」と啖呵を切り、その迫力に押された市岡は改めて藤本への全権委任を口にせざるを得なかった。

上井草球場

また茂林寺での合宿期間中には、6月に退社処分を受けていた水原が慶大野球部の元名投手で大阪毎日新聞運動部記者だった小野三千麿を通じて再入団を願い出た。巨人軍の実質的なオーナーだった読売新聞社社長の正力松太郎(1885~1969)に判断を任せられた藤本は、水原とは高松中・高松商、早慶両校時代を通じてのライヴァルだった助監督の三原と相談のうえ、復帰を認め、水原は11月1日付でメンバーに加わり、5日、での対名古屋戦で公式戦初出場を果たしている。

のちに日本シリーズでそれぞれ西鉄、巨人を率いて相まみえた両雄だが、藤本によれば幹部選手としてチームを支えていた3年間、二人が争ったり、反感を抱き合ったりするようなことは一度もなかったという。

そして公式戦へ「洲崎の決戦」

再開された秋の公式戦で、巨人は別のチームに生まれ変わっていた。甲子園での第1次大阪リーグ戦を5勝1敗、宝塚での大阪優勝大会トーナメントを2戦2勝で制し、第二次大阪リーグ戦も5勝1敗で同率首位となり、第一次大阪リーグ戦の対タイガース戦では景浦将、松木謙治郎、小川年安らを揃えた強力打線を相手に沢村が7奪三振4四球1失策の快投でプロ野球史上初のノーヒットノーランを達成している。

この「第2回全日本野球選手権大会」は各リーグ戦、トーナメントの勝者に1、同率1位には0.5の勝ち点が与えられ、最多勝ち点を獲得したチームが大会優勝となるシステムだったが、巨人とタイガースが2.5で並んだため、東京・洲崎球場で3試合制の年度優勝決定戦が行なわれることになった。

洲崎球場

「この試合に勝たねば、せっかく実を結びかけた茂林寺の練習も水のアワになってしまう、弱い巨人、弱いプロ野球ではファンも見放してしまうだろう」

(前出「実録プロ野球四十年史」より。原文のまま)

と、藤本は悲壮なまでの決意でこの「洲崎の決戦」に臨んだ。

景浦、御園生崇男、藤村富美男(シリーズでは投手としての出場はなし)が各6勝、若林忠志が5勝と投手陣の駒が揃っていたタイガースに対し、巨人は沢村が12勝を上げていたほかは、前川6勝、青柴、スタルヒン各1勝とエースへの依存度が高くなっており、沢村は3試合すべてに登板した

第1戦は、先発投手として投げ合った景浦に2ラン本塁打を浴びて1点差に迫られたものの、強打のタイガース打線から11三振を奪って3点に抑え5対3と先勝した。

沢村が先発で連投した第2戦は2回裏と6回裏に集中打を浴びて5対3と敗れたものの、第3戦では先発の前川が2点を先制されながら、4回裏に景浦を捕えた打線が前川、白石のタイムリーを含む3安打にタイガース野手陣の3失策で4点を奪い逆転し、5回表からリリーフに立った沢村が8回一死一塁で打席に迎えた景浦を3球三振に取るなど6回を無失点に抑え、巨人は2勝1敗で初の年度優勝を成し遂げた。

それは半年に及んだ藤本の苦闘がまさに実を結んだ瞬間でもあった。

(つづく)

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)

プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。

プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。


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