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闘将・星野仙一監督の残した『大いなる遺産』

 2018/01/14 プロ野球
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 2018年、中日・阪神・楽天を率いて全ての球団で優勝を成し遂げた星野仙一監督が逝去した。

闘志をむき出しにしてマウンドに立ち続けた選手時代。

監督になってからも、熱い心はそのままに。人身掌握術、球界でのネットーワークで実に4回のリーグ優勝。そして2013年には日本一に輝いた。

人は星野のことを『闘将』と呼ぶ。

そんな星野仙一が球界に残した遺産とはどんなものだったのだろうか。

3球団でリーグ優勝をした星野

2014年(平成26年)の楽天を最後に勇退した星野仙一(1946~2018)は、中日(1988、99年)、阪神(2003年)、楽天(2013年)と3球団でリーグ優勝を達成している。

この偉業を果たした監督は、日本プロ野球史上、三原脩(巨人、西鉄、大洋)、西本幸雄(大毎、阪急、近鉄)と星野の3人だけで、全員が野球殿堂入りを果たしている。

監督生活のスタートは1987年(昭和62年)の中日で、前年に54勝67敗9分、勝率.446で5位だったチームを1年で68勝51敗11分、勝率.571の2位に引き上げ、1988年には79勝46敗5分、勝率.632とさらに躍進し、王貞治率いる巨人に12ゲーム差をつけて1982年以来三度目のペナントをもたらしている。

「星野以降」激変した中日の体質

ここで星野監督時代が始まる以前の中日について簡単に説明すると、1981年から86年までの5年間では、近藤貞雄監督が1982年にリーグ優勝を果たし、84年も山内一弘監督が就任1年目で2位の成績を収めたものの、あとの3シーズンはいずれも60勝未満の勝ち星に終わっており、星野がドラフト1位指名で明大から入団した1969年までさかのぼれば、1986年までの18シーズンでは、50勝台以下に終わった年が実に10回を数えていた。

この間に2回のリーグ制覇(1974、82年)を含めて9回Aクラスに入っているが、浮き沈みの激しさゆえに、ドラフト制度導入後に戦力の均衡化が進んでも、中日はセ・リーグで確固たる優勝コンテンダーの地位を築けないままだった。

それが星野の監督就任以降、落合博満が退任した2011年まで、25年間で50勝台以下のシーズンは1995年(50勝)と97年(59勝)のわずか2回しかなく、Aクラス入りは21回(優勝6回、2位12回、3位3回)に及んでいる。

監督としての評価

当サイトでは「監督の評価」を客観的に数値化している。

参考:監督の評価の算出方法

①中日の歴代監督との比較

監督評価ポイントでも星野の就任前は水原、与那嶺、中利夫、近藤、山内の5監督で平均51.8だったのに対し、1987年から2017年までの平均は55.9にまで跳ね上がっている。

②阪神の歴代監督との比較

さらに2002年からの阪神でも、2年間の在任ではあったが、吉田義男監督の下で初の日本一となった1985年以降の17シーズンで負け越し・Bクラス14回(うち最下位10回)、監督評価ポイント平均44.5と長期にわたって低迷していたチームが、星野就任以降は岡田彰布、真弓明信、和田豊、金本知憲と続いている16シーズンでリーグ優勝2回を含むAクラス・勝ち越し9回、監督評価ポイント54.5と安定した成績を残している。

③楽天の歴代監督との比較

楽天でも球団創立からの6年間で田尾安志、野村、マーティー・ブラウン3監督の下でわずか1回のAクラス・勝ち越ししかなく、監督評価ポイント平均が44.8だったのに対し、星野が指揮を執った4シーズンでは2013年のリーグ優勝・日本一を含めて54.3へと監督評価ポイントを伸ばしている。

星野自身が成し遂げた優勝は中日2回、阪神、楽天で各1回だが、特に中日と阪神ではユニフォームを脱いだあともなおチームが長い低迷に陥ることがなかったのは、特筆すべき業績と言えるだろう。

星野仙一と野村克也の違い

星野は奇しくも阪神、楽天と野村克也の後釜を務めており、阪神入りは野村が辞任にあたってオーナーに推薦したと言われている。

野村はその著書で自身と星野の違いについて、久万俊二郎阪神球団オーナー(当時)との間にあったやり取りを紹介しながら次のように解説している。

星野が阪神を率いて2年目にリーグ優勝を果たしたあと、野村は所用で面会した久万オーナーに「野村君と星野君には決定的な違いがある。野村君は詰めが甘いよ」と言われたという。

野村が久万ら阪神電鉄本社やフロントの幹部たちに「エースや四番を獲ってくれ」「FAやドラフト逆指名制度の下でチームを強化するにはお金がかかる」と注文は出すものの、具体的に誰が欲しい、いくら必要だとまでは言わなかったのに対し、星野は広島をFAになった金本知憲(現監督)を自ら口説き、メジャーでプレイしていた伊良部秀輝の獲得をフロントに進言し、選手・コーチの3分の1を1年で入れ替えた。

自らを「処世術が全くできない人間」と語る野村は、阪神のフロントに不満や不信を抱きながらも監督が口を出すべきでないと自重していたことを次々とやってのけた星野の実行力や人脈が、後任に推した自分の考えていた以上のものであったと語っている。

徹底した「血の入れ替え」

1986年のオフに中日の監督に就任した際も、ロッテに落合のトレードを打診し、巨人が交換要員を出し惜しんでいる間に、牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂との交換トレードを電撃的に成立させている。

江藤慎一が水原茂監督との対立で1969年オフに退団して以降不在同然だった日本人の四番打者を獲得すると同時に、巨人が落合を獲得することでペナントを独占すればセ・リーグやプロ野球全体がまた危機に陥るとの使命感から、中日新聞本社や球団フロントに強く獲得を訴えて実現させた、野球史に残る超大型トレードだった。

巨人の戦力集中を阻止

星野は現役時代の1974年(昭和49年)に中日のエースとして先発・リリーフにフル回転の活躍を見せて中日のリーグ優勝に貢献し、巨人の10年連続を阻み、監督としては落合の獲得で巨人に戦力が集中することを阻止している。

一つのチームが優勝を独占することは長い目で見ればプロ野球に対するファンの関心が薄まり、観客動員やテレビ中継視聴率の低下につながる恐れがあった。

実際、巨人V9の末期には黒い霧事件の影響とあわせてプロ野球人気が下降し、巨人でさえ1972年秋のドラフトでは1位から3位までの指名選手全員に入団を拒否される事態に発展している。

ドラフト制度の導入で戦力の均衡化がようやく功を奏してきた時期に、そんな悪夢が再来することは中日だけでなく球界全体の利益にも反するとの星野の強い思いが落合の獲得につながった。

中日では一気に世代交代をさせた

中日では落合らのトレードによる獲得や、ドラフトで近藤真一(1987年1位入団)、山崎武司(同2位入団)、立浪和義(1988年1位入団)、今中慎二(1989年1位入団)、大豊泰昭(同2位入団)、与田剛(1990年1位入団)、森田幸一(1991年5位入団)などの有望・即戦力新人を次々と入団させるのと並行して、谷沢健一、大島康徳、平野謙、中尾孝義、宇野勝らのヴェテラン勢に対する引退勧告やトレードを断行して短期間で世代交代を実現している。

楽天では三木谷浩史オーナーを中心とするフロント主導の経営体制が球団創立時から確立されており、単年度の営業成績を黒字にすることが優先されたために、中日・阪神時代のような大型トレードや大物FA選手獲得はできなかったものの、3年目にはメジャー通算434本塁のアンドリュー・ジョーンズを獲得して四番に据え、攻撃力の大幅な向上に成功して優勝に結びつけた。

また2011年の東日本大震災で大きな被害を受けた地元仙台に、震災復興支援試合として同年のオールスターゲームを招致したのも大きな功績だった。

中日の「統合の象徴」だった星野

それにしても、そもそもいかに現役時代の圧倒的な人気が背景にあったとはいえ、中日ではルーキー監督だった星野が就任と同時に、天知俊一、与那嶺要、近藤貞雄など殿堂入りを果たした歴代の優勝監督や、杉下茂、西沢道夫といった大物OB監督でさえ持つことのできなかった実質的なゼネラルマネジャー(GM)兼任とも言うべき権限を与えられて大胆なチーム改革を断行することがなぜできたのだろうか? 

それは中日ドラゴンズという歴史的にさまざまな特殊事情や体質を抱えてきた球団の歴史において、彼が占めてきた唯一無二とも言うべき独特の地位や存在感によってもたらされたものだった。

名古屋での試合がほとんど無かった戦前

中日の前身は、1936年(昭和11年)に新愛知新聞社が母体となって日本職業野球連盟の旗揚げに参加した「名古屋軍」で、現存するNPB球団としては巨人(東京巨人軍)、阪神(大阪タイガース)に次ぐ歴史を持つ。

ところが「名古屋」を球団名に冠してはいたものの、プロ野球興行に適した本拠地球場を名古屋市内に持たなかったため、新愛知の競合紙だった名古屋新聞が設立した「名古屋金鯱軍」とともに戦前はほとんど地元で公式戦を行なっておらず、両チームを合わせても1936年に22試合、38年に6試合、40年に8試合が、名古屋市郊外の鳴海町(現名古屋市緑区)にあった鳴海球場などで開催されただけで、球団事務所や合宿所も東京に置かれていた。

金鯱軍・江口行男

1948年(昭和23年)、名古屋市内に中日球場(現ナゴヤ球場)が完成し、翌49年から本拠地としたことでドラゴンズはようやく愛知・東海地区の地元球団として認知されるようになったが、球団創立から10年以上にわたって地域と乖離した球団経営を行なってきた影響で、戦中から戦後にかけて投手として20勝(1949年=24勝、50年=21勝)、打者(捕手)としても本塁打王(1941年)に輝いた服部受弘(岡崎中)などを除けば、1954年の初優勝に貢献したエースの杉下茂と四番打者の西沢道夫がともに東京出身(両者とも中日在籍中、自宅は東京にあった)など、地元愛知や東海地方出身の主力選手が少なく、その点が地元へのアピール度にやや欠ける面があった。

長期政権が少なかった中日の監督

さらに創業時の親会社だった新愛知新聞が戦時中の1942年(昭和17年)に、政府が地方新聞の統合・削減(一県一紙制)を目的に発令した「新聞統廃合令」によって、金鯱軍(1941年に東京セネタース=翼軍と合併して「大洋軍」となり消滅)を経営していたライヴァル誌の名古屋新聞と合併して「中部日本(中日)新聞社」となり、戦後も旧「新愛知」系、「名古屋」系それぞれの社主家が存在する影響による派閥争いが球団経営にも影響を及ぼしてきたこと、戦時中の1944年(昭和19年)に中日新聞社が一度経営権を手放して赤嶺昌志代表がチーム運営を肩代わりし、軍需産業の「理研工業」に出資を委ね、戦後も1950年からの4年間、名古屋鉄道が経営に参加して「名古屋ドラゴンズ」と改称するなど経営母体に変遷があった影響などで、一人の監督が長期にわたって指揮を執れない時代が続いていた。

杉下茂

チームを初のリーグ優勝と日本一に導いた天知でさえ在任期間は3期(1949~51、54、57~58年)通算6年であり、生え抜きの杉下が2期(1959~60、68年)3年、西沢が4年(1964~67年)に過ぎない。

また天知、濃人渉(1961~62年)、水原(1969~71年)、山内(1984~86年)と監督を外部から招へいすることも多く、フロント、選手間の人脈も複雑化したことで、戦後間もなく起きた「赤嶺騒動」(1947年オフに解任された赤嶺代表に従って、小鶴誠ら12選手が退団・移籍した事件)などチーム内の内紛もたびたびメディアを賑わせてきた。

星野の巨人相手に闘志むき出しの投球にファンは歓喜

1969年にドラフト1位で入団した星野は、岡山の出身(後年、母親の出身地と両親が出会った地が名古屋だったことがテレビ番組の取材で判明している)だったものの、中日在籍中も自宅は東京にあった杉下や西沢と違って、結婚して合宿所を出ても名古屋に自宅を構えていた。

また1968年秋のドラフト前に、田淵幸一の「外れ1位」指名を約束しながらそれを反故にした巨人相手に闘志むき出しの投球を見せ、通算成績でも35勝31敗と勝ち越したことも地元ファンの共感を呼んだ。

そして全国区の大スターに

特に1974年(昭和49年)は49試合に登板して先発17、リリーフ32とフル回転し、15勝に加えて10セーヴを上げて、この年制定されたセーヴ王の初戴冠者となり、20年ぶりのリーグ優勝と巨人のV10を阻止する立役者となったことで、中日における大スターとしての地位を不動のものとした。

さらに現役引退後は親会社系列の中部日本放送(CBC)などの地元放送局でなく、NHKの専属解説者となって全国ネットの野球中継解説やスポーツ番組のキャスターとして出演することにより、その人気は「全国区」へと広がった。

まさに星野は創立以来バラバラだった中日のチームカラーを一つにまとめた人物であり、日本国憲法下における「象徴天皇制」の精神と同様に、「中日ドラゴンズ球団とファン統合の象徴」と言うべき存在だったゆえに、新人監督として異例の権限を与えられることになった。

多くの「教科書」に恵まれた野球人生

さらにその野球生活を通じて、ヴァラエティーに富んだ指導者と出会ってきたことも「監督・星野」にとっては非常に幸運だった。

明大野球部時代は名物監督として知られた島岡吉郎によって精神野球の薫陶を受け、プロ入り後最初の監督だった水原は巨人時代からしばしば思い切った若手抜擢を行なうことで知られており、星野も水原在籍中の3年間で125試合に起用されている。

1972年からは日系アメリカ人のウォーリー与那嶺が指揮を執り、彼から投手育成・起用を委任された近藤貞雄ヘッド兼投手コーチが唱えた「投手分業制」のもとで、1972年は前年に痛めた右ひじへの負担軽減のためにリリーフ専業となり、規定投球回不足ながらも自己ベストの防御率2.01、翌73年は先発・救援を兼ねて16勝をマークしている。

星野は自身が私淑した島岡や水原だけでなく、起用法をめぐってしばしば軋轢のあった近藤からも指導者として学ぶべきところは学んでおり、NHK時代も現役時代の宿敵だったV9巨人の監督・川上哲治から近い将来の監督としてさまざまな教えを受けている。

中日、阪神、楽天を通じて監督として背負った背番号は一貫して川上と同じ「77」だった。

近藤貞雄との対立

このなかで近藤との関係については、現役時代から両者の確執が取りざたされることが多く、星野が阪神の監督に就任する際も、当時中日のOB会長だった近藤との間に対立が生じたと伝えられている。

近藤貞雄

実際、星野は生前、島岡、水原、川上からの影響は口にしても、近藤の名前を上げる機会はほとんどなく、むしろ近藤がヘッド兼投手コーチ、監督として在任した当時は起用法などを巡ってしばしば軋轢が取り沙汰された間柄だった。

しかし、近藤と星野が終始お互いを否定していたかと言えば、必ずしもそうだったとは言い切れない。

たとえば星野の現役時代、相手打線に打ち込まれた場面で近藤が交代を告げにマウンドに向かうと、降板を拒むそぶりを見せる星野から非情にボールをもぎ取る様子から、王貞治に「もぎりの近藤」のあだ名を献上されたほど二人のせめぎ合いは有名だったが、それから十数年を経て星野が監督になると、交代を嫌がる投手から有無を言わさずボールを取り上げる姿は、かつての近藤そのままだった。

1981年に近藤が監督に就任すると、投手コーチ時代の「投手分業制」に加えて、リードした試合で守備力を重視した選手交代を行なう「アメフト野球」を推進することで起用する選手の数を増やし、若手を積極的に抜擢したが、そのやり方は「独断専行だ」と選手の反発を買うことも少なくなかった。

その急先鋒ともいえる存在だった星野は、次第に力の衰えが顕著となり、1982年のシーズン途中、近藤は星野を投手陣の主力から外す決断をする。

長い間エースと呼ばれながら、敗戦処理が主な役割となった星野が内心忸怩たる思いで日々を過ごしていたであろうことは想像に難くないが、この経験が「力なきものはユニフォームを脱がなければならない」というプロ野球界の鉄則を星野に改めて認識させ、自身が監督になったとき、近藤以上に大胆な若手抜擢・育成を進める原動力となっていったのも事実だろう。

近藤はのちに、星野を「エースとして、投手陣のリーダーとして、ヘッド兼投手コーチ、監督としての自分を優勝に導いてくれた『恩人』」と語っており、星野もまた、星野自身も近藤からの影響を明確に認めないまでも全否定することはなかった。

「熱血指導」には批判も

星野の始動や采配でしばしば批判や議論の対象となったのが、特に中日第一期監督時代の「熱血指導」だった。

世代交代を進めるため練習中はおろか試合中であっても若手選手に鉄拳制裁も辞さない厳しい指導ぶりを見せ、一部のファンやメディアはそれを「熱意の表れ」と支持したが、一方で「昔の日本軍じゃあるまいし時代錯誤だ」と非難する意見も少なくなく、解説者に転じていた近藤も星野の監督としての手腕を認めつつも、自身が巨人の選手だった戦時下の現役時代、駅のホームで野球道具を持っていたのを憲兵にとがめられて理不尽な暴力を受けた苦い経験もあり、中日の外野私設応援団が掲げる「鉄拳制裁星野」の横断幕を目にして「贔屓の引き倒し」と眉をひそめ、星野の選手に対する「実力行使」には疑問を抱いていた。

近藤自身、日本のスポーツ界に沁みついた暴力を伴う指導を容認する「体育会系体質」には否定的な立場を取りながらも、自身もその影響と無縁でなかったことは否定しておらず、コーチ時代に村田兆治や鈴木孝政らに手を上げたことを認めている。

「若気の至りだったとはいえ、今になって思うともっとほかのやり方があっただろうにと思うし、そんな自分に自己嫌悪のようなものを感じることもある」と近藤は生前述懐していた。

2012年に大阪のバスケットボール名門高校で起こった部員の自殺事件をきっかけに、学校体育や部活動における体罰や部員間の暴力が問題になった時も、星野は「選手を自殺に追い込むほどの体罰は論外」と語った一方で、「(指導者が手を上げることを)体罰だ、いじめだと否定しすぎると、指導者がどんどん事なかれ主義になってしまう」と、スポーツ指導における体罰の肯定とも受け取れる発言をしており、プロ野球史上初の戦後生まれ監督でありながらも、旧日本軍から上下関係絶対主義を受け継いだ日本スポーツ界独特の「体育会系体質」を克服できなかったことは残念ながら否定できない。

ピッチャーを酷使と批判された星野

同時に近藤真一、与田剛、森田幸一、今中慎二といった新人・若手投手を積極的に起用したことが結果的に登板過多につながり、彼らの野球生命を短くしたことも批判の対象となっている。

星野の下で楽天時代の3年間をすごし、2014年Yankeesへ移籍した田中将大が同年のシーズン途中に肘の故障で戦列を離れた際も、前年の日本シリーズでの第6戦と7戦での連投、特に負け試合となった6戦で星野が交代させずに160球を投げさせたことが影響したとの意見が少なくなかった。

審判への激しい抗議も

また審判への時には退場を伴う激しい抗議や相手チームとの乱闘騒ぎもしばしばクローズアップされ、中日監督就任1年目の5月には、対広島戦で二盗した川又米利が広島の二塁手・正田耕三とタッチの仕方をめぐって小競り合いとなったのをきっかけに両軍ベンチから選手が飛び出すと、乱闘の先頭に立って野球人生初の退場処分を受けた。

また第2期監督時代の2000年5月には対横浜戦で判定への不満から橘高淳球審に対して立浪和義、大西崇之とともに暴行に及んで退場となり、連盟から出場停止5日の処分を受けている。

阪神や楽天ではさすがに乱闘の先頭に立ったり選手に手を上げたりすることは少なくなり、審判への抗議も(星野にしては)控えめになったが、負け試合のあとに記者会見で敗因を作ったり期待に応えられなかったりした選手を名指しで批判する姿が目についた。

メジャーでは監督がメディアなど第三者を使って選手を批判することはタブーとされており、落合博満も監督時代にはほとんど選手への批判や苦言を試合後に口にしなかった。

ただし星野は監督時代に一貫して、審判の技術向上や、メジャーに倣った審判学校の開設など球界が育成システムを確立するべきだと訴え続けており、その主張は2013年オフにNPBが「アンパイア・スクール」を設立して、2014年以降の審判員新採用はこのプログラムの受講者を対象とすることになったことにより日の目を見ることになった。

星野の監督の仕事は『チームの体質改善』

ナゴヤドームの建設も、1982年に選手として、88年に監督として、星野が日本シリーズで西武ライオンズと対戦した際、当時としては最新の設備を誇っていた相手の本拠地・西武ライオンズ球場(現西武ドーム)に比べ、1948年開場のナゴヤ球場が施設としてあまりにも見劣りがすることを痛感し、ドラゴンズを常に優勝を争うチームに育て上げることで観客動員などによる増益につなげ、新球場建設の機運を盛り上げることを大きな目標にしていたことで実現したものだった。

星野が采配を振るった3チームにそれぞれ短期間で優勝をもたらしながら、いずれも黄金時代を築くまでには至らなかったことを指して、「劇薬監督」と評価する声がある。

確かに家族や自身の健康問題がからんで比較的短い在任期間で勇退することが重なったため、41歳の若さで監督業を始めながら合わせて4回のリーグ優勝と日本一1回は決して多いとは言えない。

それでも星野は行く先々のチームで、時には政治的な手腕をも発揮しながら、長期低迷の原因となっていた「病巣」を現場からもフロントからも徹底的に除去し、まるで血液型まで変わったかのような体質改善を成し遂げたことは、前述した中日、阪神のケースを見ても明らかだ。

楽天でも監督退任後、球団副会長としてチーム改革を推し進め、梨田昌孝監督就任2年目にはクライマックスシリーズ進出を果たすなど成果を上げつつあったが、2018年1月4日、星野は志半ばにして70歳の若さで天に召された。

果たして楽天がに星野の「遺産」を受け継ぎ、今後に生かすことができるかが、今後大いに注目されるだろう。

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

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