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名門New York Yankeesにおける「監督史」① ミラー・ハギンス

 2017/11/14 プロ野球
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ミラー・ハギンスの抜擢に始まった「Yankees Dynasty」

ア・リーグ優勝決定シリーズ(ALCS)終了後、New York Yankeesは2008年以来指揮を執り続けてきたジョー・ジラルディ監督を事実上解任することを発表した。

10年間の在任期間でポストシーズン進出が6回、2009年にはワールドシリーズを制した実績は、チームが世代交代期に差し掛かっていたことを考えれば過小評価されるものではないが、結果的に勝利したとはいえIndiansとのディヴィジョンシリーズ(ALDS)や、一度は王手をかけながら3勝4敗で敗退したAstrosとのALCSではしばしば采配ミスが指摘されたうえ、就任時から取り沙汰された選手とのコミュニケーション不足も最後まで改善されたとは言い難く、フロントに見限られたというのが正解だろう。

11月8日現在、まだ後任人事は決定していない。ただし、Yankeesに限らず、シーズン中でも監督の交代劇が日常茶飯事となっているMLBではフロントが常に後任人事のリストアップを怠っておらず、Yankeesも今後候補者の数人と面談を行なったあと、新監督を決定するものと思われる。

日本では2015年のオフに巨人が原辰徳監督の後任人事で右往左往したあげく、現役続行を希望していた高橋由伸を急きょ新監督に据え、今季終了後には千葉ロッテマリーンズが現役を引退したばかりの井口資仁内野手を新監督に起用したが、MLBでは高橋や井口のようなスター選手が現役引退後すぐにメジャー球団の指揮を執ることはまず考えられない。

そもそも30球団の監督を見渡しても、現役時代にスター選手だったと言えるのは、BrewersやBlue Jaysなどで3319安打・504盗塁を記録して殿堂入りを果たしたポール・モリター(Twins)や、Yankeesの一塁手として首位打者・MVP・ゴールドグラブなど数々のタイトルに輝いたドン・マッティングリー(Marlins)ぐらいで、昨年のワールドシリーズを制したジョー・マッドン(Cubs)のように、現役時代メジャー経験のなかった監督もいる。

そうしたMLBにおける監督人事の「トレンド」を1910年代終わりから現在に至るまで作り上げてきたのは、実はYankeesだった。

ジラルディ前監督就任時に見られた「ヤンキース流監督人事」の伝統

ニューヨーク・ヤンキースは、松井秀喜がMVPに輝いた2009年のワールドシリーズまで、いずれもMLB史上最多のリーグ優勝40回、世界一27回を誇る名門球団でとして日本でも圧倒的な知名度を誇っている。

世紀の大本塁打王ベーブ・ルース、2130試合連続出場の鉄人ルー・ゲーリッグ、56試合連続安打記録保持者のジョー・ディマジオ、史上最高のスイッチヒッターと呼ばれたミッキー・マントル、球団歴代最多の3465安打を放つなど1990年代から21世紀にかけての黄金期に貢献して2014年限りで現役を引退したデレク・ジーター(現Marlins共同オーナー兼CEO)ら幾多のスーパースターを輩出してきたことなども含め、日本の巨人と比較されるが、両チームの間には大きな違いがひとつ存在する。

川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳、現在の高橋など大物OBが起用されてきた巨人に対し、Yankeesは1910年代終盤以降、殿堂入りの名捕手ヨギ・ベラ(1964、84~85年)を唯一の例外として、歴代の名選手たちが引退後に監督の座に就いたケースがない。ジラルディ(2008~17)の抜擢も、また典型的なヤンキースの監督人事と言うべきものだった。  

1996年から2007年までの在任中にリーグ優勝6回、世界一4回を果たした名将ジョー・トーリが退団したあと、後任監督候補はトーリのもとでコーチを務めたマッティングリーと、元正捕手・コーチで当時はYankeesの専門CATV局YESでテレビ解説者を務めていたジラルディの二人に絞られた。

現役時代の実績はマッティングリーが圧倒的だった。傘下マイナー時代からヤンキース一筋でプレーし、前述の通り数々のタイトルに輝き、1985年にはメジャー記録の8試合連続本塁打と満塁本塁打6本を記録した。1995年限りで現役を引退したあとには背番号「23」が永久欠番に指定されている。

一方のジラルディは1990年代後半に4年間正捕手を務め黄金時代に貢献したものの、個人タイトルとは無縁だった。

地元ファンの間ではマッティングリーの就任を期待する声も高かったが、ヤンキースのフロントが選んだのはジラルディだった。2006年にMarlinsで監督を務め、オーナーとの対立で解任されたものの、若手中心のチームを最後までプレーオフ争いにまで導いた采配が評価され、就任1年目でナ・リーグの最優秀監督を受賞しており、OBとしてチーム事情にも通じていたことも決め手となった。

その後、ジラルディが就任2年目でワールドシリーズを制したのに対し、2011年にDodgersの監督となったマッティングリーは、地区優勝2回は果たしているものの、2015年から指揮を執っているMarlinsでも、ワールドシリーズはまだ駒を進めていない。

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ミラー・ハギンスの抜擢に始まった「Yankees Dynasty」

Yankeesの監督人事で知名度より能力を重視する伝統が培われるきっかけになったのは、1918年に就任し、チームに初のペナントとワールドシリーズ制覇をもたらしたミラー・ハギンス(1879~1929)だった。

1910年代後半、Yankeesは名将ジョン・マグロウ率いるGiantsに地元ニューヨークで人気、実力とも大きく水をあけられていた。20世紀に入ってGiantsが世界一1回を含む6回のリーグ優勝を果たしていたのに対し、Yankees(1912年まではHighlanders)はニューヨークに移転した1903年からの15年間で2位が3回あったものの、12シーズンはBクラス(4位以下)、9シーズンで負け越し、最下位(8球団中8位)も3回記録していた。

初代監督は投手兼任のクラーク・グリフィス(1869~1955)で、ア・リーグが創立された1901年にはChicago White Soxを初代王者に導いた実績があった。

Highlandersでも2位を2回記録し、1904年には現在も20世紀以降ではシーズン記録の41勝をマークしたジャック・チェスブロ(1874~1931)の活躍でBoston Americans(現Red Sox)と最後まで優勝を争ったが、公式戦最終日のダブルヘッダー第1試合でチェスブロのワイルドピッチによる痛恨のサヨナラ負けを喫し、ペナントを逃している。

1910年代前半までは「Yankees流監督人事」もまだ成立しておらず、監督に集客能力を期待してスター選手を中心に据えることもあった。

典型的だったのは1910年途中の監督交代劇で、前年から指揮を執っていたジョージ・ストーリングス監督が、中心打者で初代キャプテンでもあった一塁手のハル・チェイスに野球賭博がらみの不正行為に関与している疑いを抱いて、フロントに解雇かトレードを進言したのに対し、逆にストーリングスの首が飛ばされ、こともあろうにチェイスが兼任監督に抜擢された人事だろう。

結局チェイスは翌1912年限りで監督兼任を解かれ、その不正行為に対する確証を深めた後任監督のフランク・チャンスによって1913年途中にホワイトソックスに放出される。

その後、フェデラルリーグのバファロー球団を経て、16年にレッズ、19年にジャイアンツへ移籍したが、チームメイトに八百長を持ちかけたことを理由にジョン・マグロウによって解雇処分を受けた。

さらに同年のワールドシリーズで起こったホワイトソックス8選手による八百長行為「ブラックソックス事件」にも選手たちとギャンブラーとの仲介役として関与したことが明らかになり、1920年に球界から永久追放されている。

1915年に知人のティル・ヒューストンと共同でヤンキースを買収したオーナーのジェイコブ・ラパート(1867~1939)は、71勝82敗で3度目の最下位に終わった1917年のシーズン終了後、3シーズン指揮を執ったビル・ドノヴァンに代わる後任監督の人事に着手した。

共同オーナーのヒューストンは、ジャイアンツのマグロウに対抗して知名度のある監督による集客力向上を目的に、Brooklyn Robins(現Los Angeles Dodgers)の監督だったウィルバート・ロビンソンを招くことを主張したが、ラパートはこれを退け、ア・リーグ会長バン・ジョンソンからの推薦もあり、St. Louis Cardinalsの監督だったハギンスに白羽の矢を立てた。

ハギンスはCardinalsでの5年間で順位こそ3位2回が最高だったが、のちに二度の三冠王に輝いた大打者ロジャース・ホーンスビーを育てるなど選手育成に優れた手腕を発揮し、シンシナティ大法学部出身で弁護士資格を持つ明晰な頭脳を活かした抜け目のない采配で、就任時に51勝99敗で最下位だったチームを5年目には82勝70敗の3位にまで引き上げており、その手腕を評価しての抜擢だった。

1920年、ヤンキースは破格の移籍金を投じてRed Soxからベーブ・ルースを獲得する。前年にメジャー新記録の年間29本塁打を放っていたルースは、Yankees移籍1年目に54本、2年目には59本とホームランを量産し、ルース見たさの観客が押し寄せたヤンキースは1920年に史上初の観客動員100万人突破、翌21年には待望のリーグ初優勝を果たした。

新球場ヤンキースタジアムが開場した1923年、Yankeesは3度目の挑戦で宿敵Giantsを下し、初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。新球場はルースの集客力によって建設資金を稼いだことから「The House that Ruth Built(ルースが建てた家)」とも呼ばれ、リーグ優勝や世界一もルースの手柄だとメディアやファンが称賛の声を浴びせるなか、シリーズ制覇の祝賀パーティーで、ラパートは先発投手陣や内野守備力の強化に腐心したハギンスの功績を真っ先に賞賛し、感謝の言葉を述べている。

Yankeesでの“監督の地位”を確立した「ハギンス対ルース事件」

過去、ヤンキースではハギンス(3回)、ジョー・マッカーシー、ケイシー・ステンゲル(各7回)、ラルフ・ハウク(2回)、ジョー・トーリ(4回)と5人の監督がワールドシリーズで2回以上の優勝を果たしている。

いずれも他球団での監督経験があるものの、マッカーシーがCubsでリーグ優勝(1929年)、トーリがBravesで地区優勝(1982年)した以外は優勝経験がなく、世界一も皆無で、マッカーシー以外の4人は他球団における監督成績で通算勝率が5割以下と、Yankees以外では目立った実績を残していない。またハウクを除く4人はYankeesのOBでないばかりか、ア・リーグ球団でプレイした経験もなく、マッカーシーは選手としてメジャー経験がなかった。

 Yankeesはなぜスター選手を「昇格」させず、他球団での実績もほとんどなかった監督に白羽の矢を立ててきたのか。トーリとジラルディのもとでプレーした松井秀喜は、Yankeesでの引退セレモニー時に日本の民放テレビ局から受けたインタヴューで次のように証言している。

「スーパースター揃いのYankeesにはわがままな人間が多少なりともいました。トーリ監督はそういう選手たちとも徹底的に話し合い、必ずチームを勝利という同じ方向に向けさせました。あの労力は本当にすごいと思いましたし、それができなければYankeesの監督は務まらないんです」

ハギンス以降のYankeesが、特にチームが強い時期、監督に一貫して求めてきたのが、松井が目の当たりにしてきた「管理能力」と「求心力」であり、そのきっかけとなったのは1925年のシーズン中に起きたある事件だった。

この年のYankeesは、69勝85敗で8球団中7位とハギンス就任以後最低の成績に終わった。最大の敗因は、打率.290、25本塁打、66打点に終わった主砲ベーブ・ルースの不振だった。

移籍後、Yankeesに優勝と観客動員をもたらしたことで慢心したルースは、年を追うごとに深酒や女遊びなど私生活での無軌道さが目立つようになっていた。

この年も開幕前に日頃の暴飲暴食が原因で激しい腹痛を起こし、緊急入院して手術を受け、5月にようやく復帰したあとも、打席でハギンスからのサインを無視したり、集合時間に遅刻したり、遠征先での門限破りを繰り返していた。

一向に態度を改める様子のないルースに堪忍袋の緒を切らしたハギンスは、ついに無期限の出場停止と罰金5000ドルを言い渡す。

この年のルースは球界最高年俸5万2000ドルでプレーしていたので、その約10分の1、この年メジャー3年目のルー・ゲーリッグの年俸3750ドルの1.3倍にもなり、のちのMLB最高年俸選手アレックス・ロドリゲス(Mariners、Rangers、Yankees)の年俸に換算すれば、およそ2億5000万円近い額に相当する金額だった。

前例のなかった重いペナルティーにルースは強く反発し、ラパート・オーナーとエド・バーロウGMに直談判まで行なって「自分を取るかハギンスを取るか」と迫ったが、二人は「ハギンスが望む限り、いつまでもこのチームの監督だ」とハギンスを全面的に支持した。

共同オーナーだったヒューストンは地味で陰気なハギンスを好まず、何度も監督交代をラパートやバーロウに迫ったが、ハギンスに全面的な信頼を置いていた二人はこれに決して応じようとせず、やがてヒューストンが持ち株をラパートに売却してオーナーの座を去ることになった。

バーロウGMはハギンスに対し「君はこのチームで唯一無二の監督だし、私が誰かに取って代わらせることはしない」と絶えず激励の言葉をかけ、采配に干渉することなく、優れた選手をトレードやマイナーリーグからの抜擢で補強し続けた。

このオーナー、GMとハギンスとの確固たる信頼関係はルースといえども崩すことができず、彼はハギンスへの謝罪に追い込まれ、二度と反抗することはなかった。

ハギンスはヤンキース監督に就任した当初、采配や選手管理の面でしばしば優柔不断さが見受けられ、選手に規律を強く求めながらも、ルースらヴェテラン、中堅選手に対しては好成績を残している限りルール違反を見逃していたために、人心掌握能力を疑問視されることもあったが、球界の帝王とも言うべき存在だったルースに毅然とした態度を貫いたことで、その評価は一変した。ルースはのちに、「ハギンスは私を規則に従わせることのできた唯一の人物だった」と語っている。

指導においては基本技術を若手、ヴェテランを問わず徹底させ、試合中はただ漫然とゲームの展開を見守ることなく、選手に徹底してフィールドで展開されているあらゆる動きに集中することを要求した。彼の下でエースとして活躍した殿堂入り投手のウエイト・ホイト(1899~1984)は、のちにハギンスについて、「彼はダッグアウトにおける校長のような存在で、私たち選手は一瞬たりとも気を抜くことができなかった。

ハギンスは選手たちに対して、得点やアウトカウントだけでなく、打者に対するカウントについてしばしば質問をぶつけてくることがあったので、私たちは試合経過に不断の注意を払わなければならなかった」と回想している。

またのちにDodgersやGiantsを率いた殿堂入り監督のレオ・デュローシャー(1905~91)は、当時Yankeesの控え内野手としてハギンスのそばにいることが多く、ベンチでひそかにその一挙一動を観察しては、采配の背景にどんな理論の裏付けがあるのかについて克明に書き記したことがのちの監督業において財産になったとその自伝で語っている。

またCardinalsでホーンスビーを育てたのと同様に、選手の才能を見出し、それを伸ばすハギンスの育成能力はYankeesでも遺憾なく発揮された

1925年6月2日、ハギンスは不振に陥っていた正一塁手のウォーリー・ピップに気分転換を図らせるためにこの日の試合を欠場させ、メジャー3年目で22歳のルー・ゲーリッグ(1903~41)を代役として先発出場させた。

ゲーリッグはこのシーズン、前日の代打起用を含めて開幕からわずか12試合の出場で24打数4安打、打率.167に過ぎなかったが、このスタメン起用からの7月1日までの27試合で、94打数34安打、打率.362、6本塁打、16打点と打ちまくった。

ちなみに前述のように開幕前の急病で出遅れていたルースは時を同じくして戦列に復帰していたが、6月1日から7月1日までの24試合で87打数23安打、打率.264、5本塁打、10打点にとどまっている。

ピップは翌日からベンチに戻ってきたものの、もはや一塁に彼の居場所はなくなり、シーズン終了後にRedsへトレードされた。

6月1日の代打出場から1939年4月30日まで続いたゲーリッグの2130試合連続出場は、シーズン途中でのハギンスによるこの大抜擢によって幕を開けたのだった。

こうしてハギンスの下、Yankeesは6回のリーグ優勝とワールドシリーズ制覇3回を果たし、名門チームとしての第一歩を踏み出した。

1903年からの15シーズンにおけるHighlanders→Yankeesの通算成績が合計1081勝1176敗、勝率.479だったのに対し、ハギンスは在任12年間で1067勝719敗、勝率.597をマークしている。

メジャーリーグで半世紀以上にわたって監督を務め、史上最多の3731勝を記録しているコニー・マック(1862~1956)はハギンスのYankeesにおける功績について、次のような言葉を残している。

「Yankeesのような偉大なチームなら、誰が監督をやっても勝てると思われるかもしれないが、それは間違っている。ハギンスによってルースらは大いに鼓舞され、あくなき闘争心を持って試合に臨むことができたのだ」

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

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