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名門New York Yankeesにおける「監督史」② ジョー・マッカーシー

 2017/11/14 プロ野球
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ヤンキース帝国を不動のものにした「MLB史上最強監督」

1929年終盤、コニー・マック率いるAthleticsが台頭し、Yankeesとのゲーム差を広げて1914年以来の優勝が確実になった頃、ミラー・ハギンスは体調を崩して9月19日にチームを離れて入院したが、9月25日、丹毒による合併症により51歳の若さで急逝した。

Yankeesのオーナーだったジェイコブ・ラパートとGMのエド・バーロウはシーズン残り11試合の采配をコーチのアート・フレッチャーに委ね、シーズン終了後に改めて後任監督就任を要請したが、ハギンスの気苦労を目の当たりにしていたフレッチャーはこれを固辞し、コーチの仕事に戻ることを希望した。

ベーブ・ルースはトリス・スピーカー、タイ・カッブ、ロジャース・ホーンスビーら同時期に兼任監督を務めていた名選手たちを引き合いに出して、ハギンスの後継に指名されることを強く希望したが、ルースが依然として球界を代表する強打者としての能力を持ち続けていたことに加え、彼の野放図で自由奔放すぎる性格が監督業に不向きだと判断したラパートとバーロウは、翌年の采配を元投手のボブ・ショーキーに任せたあと、1929年にChicago Cubsをリーグ優勝に導きながら、翌1930年終了後に解任されたジョー・マッカーシー(1887~1978)の招聘に乗り出した。

ハギンスは現役選手としてもCincinnati Reds、St. Louis Cardinalsの正二塁手として13シーズンプレイし、最多四球4回、最高出塁率1回を記録した実績があったが、マッカーシーはマイナーリーグで15年間プレーしたもののメジャー昇格を果たすことができず、Cubsでの優勝は現役時代にメジャー経験のない監督として初のペナント制覇でもあった。

ルースは選手時代の実績がないマッカーシーを軽視し、彼の監督就任に対して露骨な不快感を示したが、マッカーシーはルースに対して、「守備と走塁での全力疾走だけは怠らないでもらいたい」と注文をつけた以外は、ルースを表立って批判することは決してなかった。

現在でもYankeesはMLB30球団で最も厳しいドレスコード(服装規定)を選手に課しているチームとして知られている。遠征で移動する際にはジャケットの着用が義務づけられ、極端な長髪やあごひげも禁止されているが、このルーツとなる規則を定めたのがマッカーシーだった。

遠征時のジャケットとネクタイ着用のほか、「クラブハウス(ロッカールーム)は君たちの仕事場だ。身だしなみは出勤前に整えてこい」と、自宅か遠征先の宿舎でひげを剃ってくるように命じるなど、ドレスコードの徹底ぶりは「人があふれかえるホテルのロビーでも、Yankeesの選手を見つけ出すのは簡単だろう」と評されるほどだった。

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またハギンス監督時代には黙認されていたクラブハウスでのトランプ遊びも禁止され、長距離の移動となる遠征時の列車内では許可したものの、ポーカーでは掛け金を5セントと10セント硬貨、ブリッジでは1点20セント硬貨のみの使用にそれぞれ限定した。

ただしルースに限っては口うるさく規則遵守を求めることはせずに気分よくプレーさせることを優先し、たとえば若い選手とともに集合時間に遅れて球場入りした際には、若手の方を叱りつけることで自覚を促す手段を取った。

マッカーシーが自分のプライドを尊重していることを感じ取ったルースは、ハギンスの時のように羽目を外すこともなく、自然と規則を守って高いパフォーマンスを維持し続けた。

就任2年目の1932年にマッカーシーはYankeesで初のペナントを握り、メジャー史上初めてナショナル、アメリカンの両組織でリーグ優勝を果たした監督となった。

古巣Cubsとのワールドシリーズもルースの有名な「予告ホームラン」や、打率.529、3本塁打、8打点と打ちまくったルー・ゲーリッグの活躍などでストレート勝ちし、最初の世界一に輝いている。

だがこの時期のYankeesは、ルースが1918年以来、出場停止と病気によって出遅れた22、25年を除いて守り続けてきた本塁打王のタイトル(1932年はゲーリッグと同数)を、33年にジミー・フォックス(Athletics)へ明け渡し、翌34年限りで退団するなど世代交代期に差しかかっており、3年間ペナントから遠ざかることになる。

それでもこの間、マッカーシーが率いたYankeesは3年連続で2位を確保して優勝チームに二ケタのゲーム差をつけられることはなく、シーズン平均約91勝、勝率.605を記録している。

ハギンスからマッカーシーへの移行期と重なったYankeesの世代交代は、バーロウGMによって推進された「ファームシステム」によって主に支えられた。

それまで、メジャーにおける選手供給の柱はマイナーリーグから若手選手を自由獲得競争による「トレード」で獲得することだった。

当時のマイナーリーグはメジャーリーグがフランチャイズを置いていなかったカリフォルニア州などの太平洋沿岸地域や南部各州に球団が置かれ、独立して運営される組織であり、メジャー球団が選手を獲得する際には巨額の移籍金を払う必要があった。

この経費を節約することを目的に、Cardinalsのブランチ・リッキーGMが、マイナー球団を系列化して新人選手の育成機関・供給源にするファームシステムを考案し、1926年からの黄金期をもたらすと、1929年からの世界大恐慌で球界全体が経営難に陥ったことから他球団も追随するようになり、ヤンキースでもバーロウGMの命を受けたファームディレクターのジョージ・ワイス(のちにGM)が傘下マイナーのファーム化を進めていった。

ハギンス以上に選手の才能を見抜く眼力を持ち、指導力も卓越していたマッカーシーは世代交代期のYankeesにふさわしい監督だった。

ルースがチームを去るとゲーリッグと正捕手のビル・ディッキー(1907~93)がチームの中心となり、投手陣もハギンス時代のウェイト・ホイトやハーブ・ペノックに代わり、Red Soxから移籍してきたレッド・ラフィング(1905~86)やパシフィック・コースト・リーグ(PCL)出身のレフティー・ゴメス(1908~89)らが先発ローテーションの柱を担うようになっていく。

マッカーシーにとって最大の追い風となったのは、何と言っても1936年にゴメスと同じPCLのSan Francisco Sealsから22歳のジョー・ディマジオがYankees入りしたことだった。

ディマジオは1年目から打率.323、四番のゲーリッグ(49本塁打、152打点)に次いでチーム2位の29本塁打、125打点、132得点、リーグトップの三塁打15本を記録した。守備では1年目はレフトで64試合、センターで55試合、ライトで20試合に出場して計21補殺をマークし、翌年からはセンターに定着して長いストライドを駆使した広い守備範囲と強肩ぶりでメジャー史上屈指の中堅手となり、1941年には現在もメジャー記録の56試合連続安打を記録している。

1939年にゲーリッグが難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため連続試合出場記録が2130で途切れて引退に追い込まれたものの、ラフィングとゴメスの二本柱を中心とした投手陣、野手陣もディッキー、ディマジオに続いて、トミー・ヘンリック、ジョー・ゴードン、チャーリー・ケラーといった強打者がファームシステムからの供給やトレードによって次々とラインナップに加わるなど、投打ともに盤石の顔ぶれとなったYankeesは、ディマジオが入団した1936年から4年連続リーグ優勝・ワールドシリーズ制覇の偉業を成し遂げる。この間のシーズン平均勝利数は102.25勝にも及んだ。

Chicago White Soxの監督だったジミー・ダイクス(在任期間1934~46年)は、Yankeesの強さとそれを支える豪華な陣容をやっかんで、マッカーシーがダッグアウトで何もしなくてもボタンを押すようにして選手を使い試合に勝てるという意味で「プッシュボタン監督」と揶揄したが、4連覇の偉業はただいい選手を集めただけで成し遂げられたのではなかった。

フィラデルフィア出身のマッカーシーが手本とした監督は、地元の象徴的存在でもあったコニー・マックであり、現役時代Athleticsの三塁手としてプレーしたダイクスにとっての「師匠」でもあったが、長い間身近にいながら、マッカーシーのように規律と情をあわせ持ったマックの監督術を学べなかったダイクスは、メジャー5球団で通算21シーズン監督を務めたものの、3位が最高で、ついに1回の優勝も果たすことができなかった。

堅物で試合後のコメントでも気の利いたユーモアひとつ口にしないためメディアでの人気はいま一つだったが、マッカーシーはダッグアウトやクラブハウスでは硬軟織り交ぜた人心掌握術でチームをまとめ上げていた。

規則には厳しかったが、特別な存在だったルースを除けば、ヴェテラン、中堅、若手を区別することなく公平に扱い、選手を居丈高に怒鳴りつけたり、審判の判定にクレームをつけたりすることも皆無に近かった。

選手がエラーなど負けにつながる大きな失敗をしても、面と向かって責め立てることはせず、試合後の記者会見で「戦犯」呼ばわりすることも決してなかった。

ある年、ダブルヘッダーの第1試合で最終回に敗因となる3失策を演じた控え内野手のオスカー・グライムスはマイナー降格を覚悟してクラブハウスに戻ったが、マッカーシーは彼の背中を叩き、「オレはマイナーの選手時代にもっとひどいエラーをやらかしたことがある。気を取り直して、第2試合ではオレに勝ちをプレゼントしてくれ」と静かに激励し、グライムスは大いに意気に感じたという。

マッカーシーのRed Sox時代、3年間彼の下でプレーした「最後の4割打者」テッド・ウィリアムズ(1918~2001)は、監督や同僚、担当記者、ファンとの間とのあつれきが絶えないことで知られていたが、マッカーシーについては「私の野球人生で、彼ほどやさしい言葉をかけてくれた人物はほかにいなかった」とのちに語っている。

マッカーシーはYankeesでの16シーズンで4連覇を含む8回のリーグ優勝を果たし、Cardinalsに敗れた1941年を除く7回世界一に輝き、1946年シーズン途中に退任した。

ハギンス、マッカーシー時代の計28シーズンで Yankeesはリーグ優勝14回を果たしてGiantsの13回(20世紀以降)を上回り、うち10シーズンでワールドシリーズを制してAthleticsとRed Soxの5回を超えた。

ハギンスが礎を築いた「Yankees帝国」は、マッカーシーの時代に揺るぎなき王朝としての地位を築き上げたと言っていいだろう。

マッカーシーは1948年途中にRed Soxの監督に招かれ、全日程終了時点で96勝58敗、勝率.623でCleveland Indiansと同率首位に並んだが、優勝を決めるワンゲームプレーオフで敗れ、翌年もケイシー・ステンゲル監督就任1年目の古巣Yankeesと最終週まで優勝争いを演じながら1ゲーム差の2位に終わり、1950年のシーズン途中でユニフォームを脱いで監督生活から勇退し、3球団でのペナント獲得はならなかった。

24年間の通算成績はメジャー歴代8位の2125勝で、全シーズンで勝ち越し、90勝以上のシーズンが15回、うち100勝以上を6回記録するなど、通算勝率.615は現在も監督歴代最高記録で、Cubsでの3年目から引退まで、22シーズン連続Aクラス入り(優勝9回、2位7回、3位5回)を果たした。

野球のあらゆる面に精通し、選手に対してそれぞれの個性やゲームで置かれている状況で適切なアドヴァイスを与える能力が「史上最強監督」の地位を築き上げたと言っても過言ではない。

ディマジオはのちにマッカーシーについて、「1日でジョー・マッカーシーから何かを学ぶことなど不可能だ」と、野球人としての奥深さを称賛している。

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

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