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名門New York Yankeesにおける「監督史」③ ケイシー・ステンゲル

 2017/11/14 プロ野球
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異例の人事だったケイシー・ステンゲルの監督就任

1936年からの4連覇を含め、ジョー・マッカーシー監督が率いたYankeesは1943年までの8年間でペナントを7回、ワールドシリーズを6回制したが、1941年の日米開戦でアメリカが本格的に第二次世界大戦に参戦したことで、ジョー・ディマジオをはじめとする多くの主力選手が兵役に取られることになり、1943年のリーグ優勝と世界一がマッカーシー時代最後の栄冠となった。

1939年にオーナーのジェイコブ・ルパートが亡くなると、1945年にその資産管理団体からデル・ウェッブとダン・トッピング、Dodgersの共同オーナーだったラリー・マクフェイルが2億8000万ドルでヤンキースを買収し、四半世紀にわたってGM、球団社長として経営のトップに君臨し続けてきたエド・バーロウは第一線を退くことになった。

これによって就任以来の後ろ盾を失うことになったマッカーシーは、1946年のシーズン途中、体調不良を理由に退団している。

コーチのビル・ディッキーとジョニー・ヌーンが1946年の残り試合で指揮を執ったあと、マクフェイルの主導でWashington Senatorsの二塁手兼監督として二度のリーグ優勝経験があるバッキー・ハリスが招かれた。

ハリスは就任1年目で戦後初のリーグ優勝と世界一を果たし、翌年も94勝60敗、勝率.610と好成績を残したものの、Indians、Red Soxの後塵を拝して、首位から2.5ゲーム差の3位に終わると、マクフェイルが自身の持ち株をウェッブとトッピングに譲渡して球団を去ったこともあり、1947年オフにGMへ昇格したジョージ・ワイスによって在任わずか2シーズンで更迭されてしまった。

ワイスがハリスの後任に選んだのは、1949年にマイナー3AのOakland Oaksで114勝74敗、勝率.606の好成績でパシフィック・コースト・リーグ(PCL)を制したケイシー・ステンゲルだった。

ステンゲルは1944年から5シーズン、マイナーリーグ3球団で采配を振るい、計488勝、勝率.567、OaklandとYankees傘下の2A球団Kansas Cityを優勝に導いた手腕を旧知のワイスに認められて抜擢を受けたのだが、メディアやファンはこの人選に疑問を抱き、大いに失望した。

マイナーでの成績はともなく、それ以前にDodgersとBravesで計8シーズン務めたメジャーでの監督としてのキャリアが、とてもYankeesの新監督にふさわしい内容だとは思われなかったためだった。

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現役時代、ステンゲルは外野手としてDodgers、Pirates、Phillies、Giants、Bravesと5球団を渡り歩き、通算打率.284とまずまずの成績を残し、引退後はコーチやマイナー球団の監督を経て、1934年にDodgersの監督に就任した。

1938年からはBravesに転じたが、両球団ともに戦力面で優勝コンテンダーとは程遠い顔ぶれだったこともあり、2球団での8シーズンはいずれもBクラスで、勝ち越しはBravesでの初年度に記録した77勝75敗、勝率.507のみ。通算勝率.439で、テールエンドこそなかったものの、8球団中7位の「ブービー賞」がDodgersでの3年間で1回、Bravesでの5年間で4回もあった。

Yankeesでワールドシリーズ制覇を果たした監督8人のうち、ステンゲルは1962年から指揮を執ったMetsでの数字を含め、勝率.397と最もYankees以外の球団で数字が悪く、Yankees就任前のDodgers、Bravesにおける通算でも勝率.439に過ぎず、ファンやメディアがSenatorsとYankeesで世界一を経験したハリスの後任として不適任と思ったのも当然だった。

それでもワイスがステンゲルに白羽の矢を立てたのは、マイナーにおける采配と選手管理ぶりに注目したためだった。1940年代当時のマイナーリーグは全組織・全球団がメジャー傘下のファーム組織だったわけではなく、ステンゲルが1948年に指揮を執ったOaklandも、独立系の3A球団だった。

この時期のマイナーリーグにはメジャー昇格を目指す若手選手以外にも、メジャーでの成績が振るわず再調整や戦力外で降格となった中堅や、すでにメジャーで実績を積んだあと、キャリアの最晩年を過ごすヴェテラン選手などさまざまな年齢や経歴の選手が在籍しており、Oaklandにものちにヤンキースの正二塁手となり、のちに監督としてチームを世界一に導いたビリー・マーティンのほか、捕手としてメジャー史上初の首位打者となったアーニー・ロンバルディなどの大物もロースターに名を連ねていた。

ステンゲルは彼らを年齢や過去の実績に関係なく公平に扱い、選手個々の力を最大限に発揮させて、OaklandをPCLの王座に導いていた。

Yankeesもまた、ディマジオが選手生活の晩年に差しかかるなど世代交代の時期を迎えており、ワイスはステンゲルがマイナーで見せた手腕がそんなチーム状況にふさわしいと判断し、抜擢に踏み切った。

とは言えステンゲル1年目のYankeesは問題が山積していた。ディマジオが踵の故障で開幕からの65試合を欠場したのをはじめ、ヘンリック、ケラー、ヨギ・ベラなど主力選手に故障者が続出し、ヘンリック、ディマジオ、ベラのクリーンアップトリオを先発ラインナップに書き込めたのは154試合中わずか17試合に過ぎず、一塁のポジションを7人もの選手が務めるなど、シーズンを通じた故障者の数は(2回以上負傷した選手の回数も含めて)実に72人に及んでいる。

ステンゲルは毎試合、メンバー表に先発9人の名前を書き込む前に、トレーナーに故障者の有無を確認するのが日課となった。

この事態にステンゲルが採用した策が「プラトーン・システム」──すなわち、ひとつの打順・守備位置に複数の選手を用意し、相手投手の右左や打者との相性などによってラインナップを入れ替える選手起用法で、ステンゲル自身も現役時代にプレーしたDodgersのウィルバート・ロビンソンやGiantsのジョン・マグロウのもとでプラトーン要員として起用された経験があった。

この年のヤンキースに関しては相手との相性よりも「当日出場可能なコンディションの選手」を選んでの起用法だったが、ステンゲルが組んだ先発ラインナップは実に百通り以上を数えた。

ヤンキースのトレーナーだったオーガスト・R・マウチは、ステンゲルの「プラトーン・システム」がこの年のヤンキースにもたらした効果について次のように語っている。

「信じられないことだが、ケイシ―がラインナップから一人外すと、その代わりの選手が必ず外した選手よりもよく働いた。選手を動かし、ポジションを変えさせるなどいろんなことをしたが、これがすべてうまくいったのだから全く不思議だったね」

故障者はもちろん野手陣だけでなく投手陣にも多かったが、ステンゲルは先発投手の巻頭にこだわらず積極的にリリーフを起用することでこれを乗り切っている。

先発の中心だったアリー・レイノルズは17勝4敗の好成績だったが完投はわずか4試合で、逆に60試合でリリーフとして登板し、135回1/3を投げた左腕のジョー・ペイジは27セーブに加えて13勝をマークしている。

このシーズン、ペナントレースで優勢を伝えられたのはマッカーシーが率いて2シーズン目で、中心選手のテッド・ウィリアムズやボビー・ドーアらが全盛期にあったRed SoxだったがYankeesはプラトーン・システムの効果もあって、Red Soxと終始熾烈な争いを演じ続けた。

6月28日には敵地ボストンでの3連戦でディマジオが復帰し、いきなり11打数5安打4本塁打9打点の大当たりを見せて三タテに貢献している。その後、9月24日からのボストンとニューヨークでの直接対決で3連敗を喫して首位を明け渡したものの、レッドソックスが1勝すれば優勝という状況で迎えたヤンキースタジアムでの最終2連戦に連勝して逆転でペナントをつかんだ。

9回裏、ファウルフライを一塁のヘンリックが捕球して優勝が決まった瞬間、コーチのビル・ディッキーが喜びのあまりダッグアウトの中で飛び上がって天井に頭をぶつけ、シーズン73人目の故障者となるおまけつきだった。

Dodgersとのワールドシリーズも4勝1敗で制したYankeesは、この年から1953年まで空前絶後の5年連続リーグ優勝・ワールドシリーズ制覇を成し遂げ、メジャーリーグにおける「名門」としての地位を完全に不動のものとした。

Yankeesを率いるために生まれてきた男

ステンゲルがYankeesの監督に就任した時期が世代交代期にあたったことは前述した。

正捕手で中心打者のヨギ・ベラ(1925~2016)、小柄な体格ながら軽快な守備で「スクーター」の異名を取った名遊撃手フィル・リズート(1917~2007)らのほか、5連覇中に史上最高のスイッチヒッターと呼ばれたミッキー・マントル(1931~95)、チーム歴代最多の通算236勝をマークしたホワイティー・フォード(1928~)など有力な新人も多数加わったものの、ステンゲル時代のYankeesはハギンスやマッカーシーの時代に比べて他球団を常に圧倒する陣容を揃えていたわけではなかった。

それでもステンゲルはプラトーン・システムを利用して若手を積極的に起用するとともに、のちに三原脩(巨人、西鉄、大洋ほか)が好んで使った「超二流選手」──打者なら通算打率.277のハンク・バウアー(1922~2007)や.257のビリー・マーティン(1928~89)、投手なら通算81勝のドン・ラーセン(1929~)などの扱いに長けたところがあった。

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1956年の春季キャンプ中にラーセンが飲酒運転で自損事故を起こした際、ステンゲルはメディアの取材攻勢から守って野球に専念させ、ラーセンはこの年自己最多の11勝を上げたばかりか、同年のワールドシリーズ第5戦では、ジャッキー・ロビンソンやデューク・スナイダー、ギル・ホッジスらの強打者を擁したDodgersを相手にシリーズ史上唯一の完全試合を達成している。

その一方で、もともとマグロウの門下生を自認していただけに独裁者的な傾向も目立ち始め、プラトーン・システムに対する過剰な自信から、ヴェテランとのあつれきを生じることもあった。

1950年にはディマジオを本人の意向も確かめず無断で四番から外したり、1試合だけだったが未経験の一塁を守らせたりしている。ちなみにディマジオはメジャー2年目の1937年以降、センター以外のポジションに就いたのは、第二次世界大戦の兵役から復帰した1946年にレフトを3試合守ったのみだった。

それでも5連覇中はヴェテラン選手が次々と引退やトレードでチームを去ったことや、ワイスを中心としたフロントの強いバックアップもあって、不協和音の発生までには至らなかった。

しかし1954年に103勝を上げながら、116勝のIndiansに8ゲーム差の2位に終わって連覇にピリオドが打たれると、ステンゲルの神通力にも陰りが生じるようになった。

1955年にはペナントを取り戻したものの、ワールドシリーズでは過去5回の対戦で一度も負けたことのなかったDodgersに初の世界一を許し、1957年には若き長距離打者コンビのハンク・アーロン、エディー・マシューズを擁したBravesに名を成さしめている。

それぞれ翌年のシリーズで雪辱を果たしているものの、いずれも7戦目までもつれ込んでの勝利であり、ステンゲルのプラトーン・システムも臨機応変な活用よりも硬直化が目立つようになってきた。

1950年に自己最多の200安打を放ってア・リーグのMVPを受賞したリズートも、それを境に成績が次第に下り坂になると、プラトーン・システムで出場機会が限られるようになり、ステンゲルとの関係が微妙なものとなった。のちにリズートは「ステンゲルの下で働くのは決して楽しいことではなかった」と、次のように回想している。

「彼には二つの顔があった。一つは世間と記者に対するもの、もう一つは自分の使っている選手に対する顔だ。選手たちはダッグアウトやクラブハウスではいつもこきおろされたものだ。彼は人をちやほやする能力は天才的だったが、いじめるとなるととことんいじめたものだ。しかもメディアが誉めそやすものだから、ついには自分に『神通力』があると本気で思い始めた」

この時期も、Yankeesには傘下のマイナーからは有望な若手選手が次々と送り込まれていたが、ステンゲルにはかつてマントルを辛抱して使い続けた時のような我慢強さが失われていた。

1957年にア・リーグの新人王となったトニー・クーベック(1935~)は正遊撃手となるまでに内外野で五つのポジションを守らされたが、それでも「他の選手よりも扱いはよかった」と皮肉交じりに回想している。

クーベックと同年齢のボビー・リチャードソン(1935~)正二塁手の座を掴むまで先発出場してもすぐに代打に出されることがざらだったし、1960年にAthleticsから移籍してきたクリート・ボイヤー(1937~2007/のちに大洋でプレイ)も同年のワールドシリーズ第1戦に「七番・三塁」でスタメン出場しながら1回裏の守備に就いたのみで、2回表に代打を送られてベンチに下げられている。

これ以外にも、若手のミスに寛容だったマッカーシーとは対照的に、監督生活晩年のステンゲルは若手が一度でも失敗を犯せば、ベンチを温めさせるかマイナーに降格させるかのどちらかとなっていた。

Yankeesが初めてアフリカ系アメリカ人選手のエルストン・ハワード(1929~80)を昇格させたのは、ジャッキー・ロビンソンのドジャース入団に遅れること8年の1955年で、ロビンソンはステンゲルを「レイシスト」と批判した。これはステンゲルよりもヤンキースとア・リーグ全体がアフリカ系選手の登用に消極的だったことが原因でもあった。

ハワードは「ステンゲルに差別的な扱いを受けたことはない」と証言し、ステンゲルもハワードや、ア・リーグにおけるアフリカ系選手の先駆者だったサッチェル・ペイジ(1906~82)やラリー・ドビー(1923~2003)は大げさなほどに称賛している。

ただし、アフリカ系選手の登用でYankeesが後れを取ったことは、のちに大きな影を落とすことになる。

1960年、Yankeesで12年目のステンゲルは師匠であるマグロウと並ぶ10回目のリーグ優勝を果たしたが、ワールドシリーズでは対戦相手のパイレーツにチーム安打数で91対60、本塁打数で10対4、総得点で55対27と圧倒的な差をつけながら、第7戦までもつれた末に、ビル・マゼロスキーの劇的なサヨナラ本塁打で敗退する。

1955年以降、ステンゲル率いるヤンキースは5回のワールドシリーズに出場したが、うち3回で苦杯を舐める結果となった。

第3戦、第6戦に先発していずれも完封勝利を演じたフォードを初戦から起用しなかった判断ミスを含め、この年で70歳になっていたステンゲルの衰えはいよいよ顕著になっており、シリーズ終了後、ヤンキースは16万ドルの功労金を引き替えにステンゲルを勇退させ、コーチのラルフ・ハウクを後任に選んだ。すでにフロントで実権を失いつつあったワイスも直後に事実上の解任に追い込まれている。

「肩叩き」の理由が70歳の高齢だと聞かされたステンゲルは、野球史上に残る次の名セリフを残している。

「70歳になるなんて間違いは二度と起こしたくないね」

その後、ステンゲルは1962年の球団数拡張でナ・リーグに加盟したNew York Metsの初代監督に、ひと足早く球団社長に就任していたワイスの要請を受けて就任したが、1年目に近代メジャーリーグワーストの40勝120敗、勝率.250で最下位に沈んだのを含め、3年連続100敗以上でテールエンドから脱せないまま、1965年のシーズン途中、レストランで転倒して腰を骨折し、そのままユニフォームを脱いだ。

Yankeesでの栄光に満ちた日々に対し、Dodgers、Braves、Metsで指揮を執った計13シーズンではAクラス入りゼロで、勝ち越しもわずか1回だけだった。

Metsでの屈辱の4年間で3球団での勝率は4割を割ったが、それでもYankeesでの「蓄財」はあまりにも大きく、通算1905勝、勝率も.508で、メジャー歴代最多勝と同時に最多敗を喫して負け越したコニー・マックの轍を踏まずに済んだ。

ある意味ステンゲルはハギンスやマッカーシー以上に、「Yankeesを指揮するために生まれてきた男」だったのかもしれない。

1966年、ステンゲルは野球殿堂入りを果たした。通常であれば引退後6年を経て選考資格を得るが、高齢であったことと、Yankees監督としての業績が比類なきものであったことから、全米記者協会による特別措置として引退直後の選出となった。

同様のケースは1939年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため引退を余儀なくされたルー・ゲーリッグと、1972年の大晦日にニカラグア大地震の救援活動に向かう飛行機が墜落して事故死したロベルト・クレメンテ(Pirates)を含めて三例しかない。

またYankeesとMetsでつけていた背番号「37」は両球団で永久欠番に指定されている。

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

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