1. TOP
  2. プロ野球
  3. 名門New York Yankeesにおける「監督史」④ ラルフ・ハウク~ヨギ・ベラ

名門New York Yankeesにおける「監督史」④ ラルフ・ハウク~ヨギ・ベラ

 2017/11/14 プロ野球
  310 Views

ステンゲルの後継者ハウクの成功

1960年のワールドシリーズ敗退後に解任されたケイシー・ステンゲルの後任となったのは、コーチのラルフ・ハウク(1919~2012)だった。

ハウクは現役時代Yankeesの捕手だったが、ヨギ・ベラの控えとして通算91試合に出場したのみで、現役最後のシーズンとなった1954年はブルペンコーチを兼任していた。

1955年から傘下マイナー3A球団Denverの監督に転じると、トニー・クーベック、ボビー・リチャードソン、ハウク自身の下でエースとして活躍したラルフ・テリー(1936~)などを育て、1958年にYankeesのコーチに昇格している。

Denverには、のちに監督として野球殿堂入りを果たしたトミー・ラソーダ(Dodgers)とホワイティー・ハーゾッグ(Royals、Cardinalsほか)も在籍しており、ラソーダは後年ハウクについて、「自分がプレイした監督の中でも、もっとも選手の操縦術に優れていた人で、自分の監督としてのスタイルにも影響を与えている」と語っている。

1920年代以降のYankeesにペナントと世界一をもたらしたミラー・ハギンス、ジョー・マッカーシー、バッキー・ハリス、ステンゲルはいずれも他球団での監督経験があった外部招聘だったが、ハウクは就任1年目の1961年にYankees生え抜きの監督として最初のリーグ優勝とシリーズ制覇を果たし、翌年も連覇を達成する。

退任時70歳だったステンゲルに対し、ハウクは就任当時42歳で、ベラ、ミッキー・マントル、ホワイティー・フォードらのヴェテラン選手だけでなく、リチャードソンやクーベックらの若手選手とも世代的に近かった。

Yankeesでの監督生活が晩年に差しかかった頃のステンゲルは、年齢的なギャップもあって選手たちとの意思疎通にしばしば齟齬をきたすようになっていたことについては前述したが、ハウクはそれをコーチとして補佐し、不協和音を抑える役割を果たしていた。やがてその指導者としての能力はYankeesの組織内にとどまらず球界全体でも認められるようになる。

1960年のシリーズ終了後にフロントがステンゲルを更迭したのも、ハウクに対する他球団からの監督就任要請が絶えなかったのが原因の一つと言われている。

ステンゲルからハウクに引き継がれたチームには、ベラ、マントル、フォードらの生え抜きのほか、前年にKansas City Athleticsから移籍して39本塁打、リーグ1位の112打点をマークしア・リーグのMVPに選ばれたロジャー・マリス(1934~85)や、ベラに代わって正捕手の座を掴みつつあったエルストン・ハワード、ハウクがマイナーで育てたリチャードソンやクーベックなどそうそうたる顔ぶれが遺産として残されていた。

ハウクもマッカーシー同様「プッシュボタン監督」と揶揄されることがあったが、就任からのリーグ3連覇、シリーズ2連覇は彼の手腕があればこそ成し遂げられたものだった。

ステンゲルには特に年齢を重ねるにつれ、マグロウのように選手の上に「君臨」しようとする姿勢が目立ち、若手選手がしばしば硬直化した「プラトーンシステム」の犠牲になった。

マントルは三振の多さを減らすためスイングをコンパクトにするよう口やかましく言われたことからステンゲルを敬遠するようになり、エースのフォードも片やひじの消耗を避けるために登板数が制限されていたため、メジャー昇格からの実働9年間で一度も20勝を記録したことがなかった。

ハワードは正捕手にベラがいたことのほか、アフリカ系選手の登用に消極的だったワイスの方針もあってメジャー昇格後も外野手としての出場が中心で実力を十分に発揮できずにいた。

ハウクは逆に苦労人らしく選手に寄り添う姿勢を見せた。マントルやマリスに対しては一流打者としてのプライドを尊重し、彼らが打席で実力を十二分に発揮できるよう必要以上の干渉をしなかった。

フォードにはキャンプ初日の面談で「これからは中3日でどんどん投げてもらう」と告げ、正捕手の座は完全にベラからハワードに移った。

その結果、マリスはベーブ・ルースの記録を34年ぶりに更新するシーズン61本塁打を放って2年連続でMVPを受賞し、マントルも54本塁打を放って最後まで熾烈なタイトル争いを演じた。フォードは自己最多の25勝を上げてサイ・ヤング賞を初受賞し、ハワードも自己最多の21本塁打をマークしている。

1961年、Yankeesはリーグ最多のチーム本塁打数240本を記録し、2位Tigersに8ゲーム差をつけて前年に続いての連覇を果たすと、ワールドシリーズでもRedsを4勝1敗と一蹴し、3年ぶりに世界一を奪回した。

この年はア・リーグが8球団から10球団に拡張され、新加盟球団が「お客さん」になった幸運もあったが、ハウクは新人監督記録の109勝をマークし、勝率.673は、開幕から指揮を執ったYankees1年目の監督として現在も球団記録となっている。

凋落への序曲~ヨギ・ベラの監督就任

ハウクは1962年もペナントとシリーズを制し、1963年もリーグ3連覇を果たしたが、シリーズでサンディー・コーファックス、ドン・ドライスデイルの強力投手陣を擁したDodgersの前に0勝4敗のストレートで敗れると、オーナーサイドの意向によってGMに「昇格」させられ、後任に現役を引退したばかりのベラが就くことになった。

1963年のシーズンはマントルが骨折のため65試合しか出場できず、マリスも故障で成績を大幅に落とすなどペナントレースでは苦しい戦いを強いられたが、ハウクは若手選手を積極的に起用してその穴を埋めるなど、むしろ監督としての真価を発揮したシーズンでもあったので、この交代劇は不可解なものとして受け取られた。

Embed from Getty Images

この人事の背景には、リーグ4連覇を果たしたヤンキースが130万8920人の観客動員にとどまったのに対し、前年にナ・リーグの球団数拡張で同じニューヨークに誕生し、ステンゲルが初代監督に就任して2年目のMetsが、51勝111敗で首位Dodgersから48ゲーム差、9位のColt45’s(現Astros)にさえ15ゲーム差をつけられての最下位(10球団中10位)に沈んだにもかかわらず、2年目で観客動員100万人台を突破し、翌年には新球場シェイスタジアムの開場が控えていたことにYankeesの経営陣が危機感を抱いたことがあったと考えられる。

フロントはベラの人気にあやかってMetsに対抗しようとしたのだが、それはハギンスの就任以来、ヤンキースが監督人事で貫いてきたポリシーの変質にほかならなかった。

1955年63年のシリーズでYankeesを破り、1959年にもWhite Soxを下して、Dodgersに3回の世界一をもたらしていたウォルター・オルストン監督(1911~84)は、現役時代Cardinalsで1打席1三振、一塁手としての二度の守備機会で失策1のみの成績しか残しておらず、指導者に転じるとマイナーで修業を積んでDodgersの監督に抜擢された経歴の持ち主だった。

オルストンのような人物がメジャーの監督に起用されて成功を収めることができるようになったきっかけは、間違いなくYankeesが先鞭をつけたものだったし、ベラの監督起用は逆に自分たちが作り上げてきた監督人事のトレンドを自ら断ち切る行為だった。

実際、ハウクのようにコーチやマイナー監督の経験を経ずに監督となったベラは、チームを掌握することができなかった。

マントルやフォードは若手選手たちを引き連れてはニューヨークや遠征先でのナイトクラブ通いで深酒に浸ったり馬鹿騒ぎを演じたりするのが日常茶飯事となり、長い間チーム内で守られてきた規律も崩壊同然となった。

しかも長い黄金時代に慢心した経営陣が、Yankeesの強さを支えてきたスカウティングやファームシステムに必要な投資をしなかったため、マントルやフォードのあとを担うスター候補生が傘下マイナーチームのどこを見ても見当たらない状態に陥っていた。

それでも何とか残っていたチームの地力や、ペナントを争っていたOriolesやWhite Soxの息切れもあって、ヤンキースは1ゲーム差でリーグ5連覇を果たしたものの、ワールドシリーズではボブ・ギブソンやカート・フラッド、ルー・ブロックら若手選手の台頭でシーズン終盤にPhilliesを大逆転してペナントを掴んだCardinalsの前に3勝4敗と敗退した。

そして、19477年以降の18年間で実に15回にわたりア・リーグのペナントを独占してきた「Yankees帝国」もここに終焉の時を迎えた。

ジョニー・キーンが監督に

シリーズ終了後にベラは更迭され(のちにMetsの監督に就任し、1973年にリーグ優勝を果たして、マッカーシーに次いで両リーグでペナントを制した二人目の監督となった)、後任には何とシリーズでYankeesを下したCardinalsのジョニー・キーンが就任した。

シーズン中からキーンはペナントやシリーズの結果如何にかかわらず勇退が決まっていたとはいえ、安直な人事との印象は否めず、しかもYankeesはマントル、マリスのMM砲やエースのフォードが現役生活の晩年を迎え、スカウト網やファームシステムの弱体化によって彼らに代わる人材も用意することができずにいた。

結果としてキーン就任1年目のYankeesは77勝85敗で1925年以来40年ぶりの負け越しを喫して10球団中6位に順位を下げ、1966年には70勝89敗で、1917年以来となる最下位に転落した。

キーンは1966年のシーズン途中で解任の憂き目に遭い、ハウクが監督に復帰して1973年まで務めたものの、8シーズンで勝ち越しはわずか3回、順位も1970年の2位が最高で、1973年にジョージ・スタインブレナーが新たなオーナーとなってチームの再建に乗り出したのと相前後して、ハウクもピンストライプのユニフォームを脱ぐことになる。

その後、ハウクはTigersとRed Soxで監督を歴任し、通算20年間でメジャー歴代17位となる1619勝を上げたものの、Yankees就任直後のリーグ制覇3回、世界一2回以降は優勝回数を重ねることができず、野球殿堂入りの栄誉に浴することだができずにいる。

1960年代後半から長い低迷期に入ったYankeesに再び栄光の日々を取り戻したのは、ピンストライプのプライドと名監督たちのDNAを引き継いだ、「闘将」の形容詞が相応しい指揮官だった。

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

野球好きの人は『いいね!』をして下さい。役立つ情報をお届けします。

関連記事

スポンサードリンク

ライター紹介 ライター一覧

箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

この人が書いた記事  記事一覧

  • 闘将・星野仙一監督の残した『大いなる遺産』

  • 阪神タイガースを2度優勝に導いた男・藤本定義

  • 巨人と阪神に優勝をもたらした男~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義②

  • 「プロ野球の監督評価ポイント」を数値でランキングする

関連記事

  • 名門New York Yankeesにおける「監督史」③ ケイシー・ステンゲル

  • 闘将・星野仙一監督の残した『大いなる遺産』

  • 阪神タイガースを2度優勝に導いた男・藤本定義

  • 名門New York Yankeesにおける「監督史」① ミラー・ハギンス

  • 巨人と阪神にペナントをもたらした男・~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義①

  • 名門New York Yankeesにおける「監督史」⑦ ジョー・トーリ