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名門New York Yankeesにおける「監督史」⑤ビリー・マーティンの“酒と喧嘩の日々”(前編)

 2017/11/14 プロ野球
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「優勝請負人」ビリー・マーティン

「第1条・監督は常に正しい」(Rule1 : The Boss is always right.)
「第2条・監督が間違っていると思ったら第1条を見よ」(Rule2 : When the boss is wrong, refer to rule #1.)

監督室のドアにこのスローガンを張り出していたのは、1970年代から80年代にかけてのア・リーグで一時代を築いた“ビリー・ザ・キッド”ことアルフレッド・マニュエル・マーティン(1928~89)だ。

1969年のMinnesota Twinsを皮切りに、Detroit Tigers(1971~73)、Texas Rangers(1973~75)、Yankees(1975~78、79、83、85、88)、Oakland Athletics(1980~82)と、メジャー歴代3位タイ、第二次大戦後では最多の5球団で指揮を執った。

Rangers以外の4球団を地区優勝に導き、すべてのチームで2位以上の成績を残しているが、もっとも強烈な印象を残しているのは五度にわたって監督を務めたYankees時代であり、監督生活で唯一のリーグ優勝(1976、77)とワールドシリーズ制覇(1977年)を果たしている。

現役時代は二塁手で、キャリアの大半をYankeesで過ごし、通算打率は.257に過ぎなかったが、大舞台に強いことで有名だった。

1953年のワールドシリーズでは24打数12安打、打率.500と、6戦で終了したカードにおける最多安打と最高打率の記録を樹立するなど、通算5回、計28試合に出場して99打数33安打、打率.333、5本塁打、19打点の成績を残している。

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ビリー・マーティンの背番号は「1」

現役時代からファンの間で高かったその人気は、1975年途中に監督として復帰して、1960年代半ばから低迷していたチームに久々のペナントと世界一をもたらしたことでさらに高まり、1986年には現役・監督時代を通じて背負ってきた背番号「1」が永久欠番に指定された。

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余談だが、吉田義男(1933~)が阪神タイガースの監督に初めて就任した1975年から3シーズン背負っていた背番号「1」は、マーティンにあやかって選んだものだった。

コパカバーナ事件でヤンキースを去る

1957年のシーズン途中、マーティンがニューヨーク市内のナイトクラブ「コパカバーナ」でチームメイトのミッキー・マントルやホワイティ―・フォード、ハンク・バウアーらとともに自身の誕生パーティーを行なっていた時、居合わせた別の客がクラブのステージに出演していた名エンタティナーのサミー・デイヴィスJr.に人種差別的なヤジを飛ばしたことをきっかけに乱闘騒ぎが起こり、もともと折り合いの悪かったGMのジョージ・ワイスによってマーティンはこの「コパカバーナ事件」の直後にアスレティックスへ懲罰的に放出された。

以後、マーティンはTigers、Indians、Reds、Braves、Twinsを転々とした末に1961年限りで戦力外となり、引退後はTwinsのスカウト、三塁ベースコーチ、傘下マイナー3A球団の監督を経て、1969年、Twinsでメジャー監督としての第一歩を踏み出した。

Twinsでは就任1年目に地区優勝を果たしたものの、リーグ優勝決定シリーズでOriolesに敗れると、投手起用を巡ってオーナーと対立して解任に追い込まれる。

1年のブランクを経て、マーティンは1971年、Tigersの監督に迎えられると、2年目の1972年にはア・リーグ東地区を制したがAthleticsの前に敗退し、翌73年途中にフロント幹部と対立してまたも解任の憂き目にあう。

しかし短期間で2チームを地区優勝に導いた手腕への評価は高く、Tigersを解雇された直後にはRangerの監督に就任し、翌1974年にはア・リーグ西地区2位にまでチームを躍進させた。

しかしRangersの経営権が譲渡された1975年には新オーナーと対立し、シーズン途中でまたも首を切られたが、すかさずマーティンに声をかけたのが、1973年からYankeesの筆頭オーナーとなっていたジョージ・マイケル・スタインブレナー三世だった。

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「ビリー・ザ・キッド」NYへ還る!

前述の通りYankeesは1964年のリーグ優勝を最後に、ミッキー・マントルやホワイティ―・フォード、ロジャー・マリスらスター選手の高齢化や監督人事の迷走、さらに1965年に球団を買収した米三大ネットワークのひとつCBSによる経営戦略の失敗などで長く低迷を続けていた。

スタインブレナーはオーナー就任と同時に、老朽化した本拠地ヤンキースタジアムの全面改修や大型トレードなどに次々と着手し、1974年のオフにはAthleticsの契約不履行でフリーエージェント権を獲得した大投手キャットフィッシュ・ハンターを他球団との激しい争奪戦の末に獲得していた。

だがスタインブレナーのもとで二人目の監督となったビル・ヴァードンが指揮を執っていた1975年は104試合を消化した時点で53勝51敗、勝率.510、ア・リーグ東地区で首位Red Soxに10ゲーム差引き離されての3位にとどまっており、スタインブレナーはヴァードンの手腕に不信を募らせていた。

スタインブレナーはマーティン解任のニュースを聞くや否や、球団社長兼GMのゲイブ・ポールにマーティンの獲得を命じた。

マーティンがTwins、Tigers、Rangersでフロントと軋轢を起こしていたことを懸念したポールは、一度は思いとどまるようスタインブレナーに進言したが、「私は彼が欲しい。彼を手に入れたまえ」と命じられると、再び反論することなく、Rangersを解任されたあとの所在が不明だったマーティンの行方を追いかけ始めた。

1957年の「コパカバーナ事件」でワイスにチームを追われて以来、マーティンにとっては古巣のユニフォームを再び身をまとうことこそが宿願であり、スタインブレナーからの誘いを断る理由など何もなかった。

1975年8月2日、ヤンキースタジアムの改装工事中にYankeesが間借りしていたMetsの本拠地シェイスタジアムでは、ちょうどYankeesのOBが年1回一堂に会する「Old Timers Day(OB戦)」が開催されており、1951年の開幕戦以来、ヤンキースタジアムの場内アナウンサーを務めていたボブ・シェパードによって「背番号1、Yankeesの新監督、ビリー・マーティン!」と紹介されてマーティンが球場に姿を現すと、スタンドの観客は一斉にスタンディングオベーションで帰ってきたマーティンを迎えた。

監督就任発表の記者会見でマーティンは記者に心境を聞かれて次のように答えている。

「これが、ずっと望んでいた、ただひとつのポストだ」

古巣へ18年ぶりに監督として復帰したマーティンが選手へのあいさつで発した第一声は「俺は負けるためにここに来たんじゃない」だった。

この年こそ30勝26敗で順位をア・リーグ東地区の3位から上げることはできなかったが、2年に及んだ全面改装が終わり、二代目ヤンキースタジアムが開場した1976年が「Yankees帝国」再建の幕開けとなった。

当時の球団社長兼GMゲイブ・ポールは、もともとReds、IndiansでGMを歴任し、Reds時代にはのちに野球殿堂入りを果たすフランク・ロビンソンやトニー・ペレスを発掘するなど、選手の実力を見極める鑑識眼には定評のある人物だった。

Indians時代に地元クリーヴランドの実業家だったスタインブレナーと知己の間柄になっていたポールは、CBSからの球団買収にあたって仲介役を務めたこともあって球団運営の最高責任者となり、就任と同時に積極的なトレードを行なっていた。

マーティンの就任前には、のちにア・リーグの救援投手として初めてサイ・ヤング賞を受賞したスパーキー・ライルをRed Soxから、Twins時代にマーティンのもとで内外野のユーティリティープレイヤーだった三塁手のグレイグ・ネトルズと、1971年のア・リーグ新人王を受賞した一塁手のクリス・チャンブリスをIndiansから、1969年のア・リーグ新人王ルー・ピネラをRoyalsからそれぞれ獲得しており、1975年のオフにはPiratesから通算96勝の右腕投手ドク・エリスと二塁手のウィリー・ランドルフ、メジャー最多本塁打記録保持者であるバリー・ボンズの父として知られるボビー・ボンズとのトレードでAngelsから中堅手のミッキー・リヴァースとプエルトリコ出身の右腕投手エド・フィゲロアを入団させていた。

フィゲロアは移籍1年目にチーム最多の19勝、エリスも17勝を上げ、リヴァースとランドルフは1976年から一、二番コンビを組むことになり、投手力と機動力を重視するマーティンの意向に沿った強化策と言えるものだった。

生え抜きの選手には1970年の新人王で、スタインブレナーによってルー・ゲーリッグ以来のキャプテンに指名されていた正捕手のサーマン・マンソンや、のちに日本の巨人でもプレイした左翼手でスイッチヒッターのロイ・ホワイトがおり、これに前年FAで獲得したハンターを加えたチーム編成はチーム防御率リーグ3.19でリーグ1位の投手力、チーム打率.269、総得点730でともに2位の打撃力、チーム盗塁数163個で3位の機動力、守備率.980で2位の守備力と、攻守走にバランスの取れた、マーティンが理想とする陣容となった。

マーティンが最初に監督を務めた当時のYankeesを指して、「FAを利用して金で王座を買ったチーム」と評する声が現在もあるが、この時期のYankeesが獲得して優勝に貢献した大物FA選手はハンター、レジー・ジャクソン、リッチー・ゴセージの3人ぐらいで、ほかの主力選手はマンソンやホワイトらの生え抜きに加え、ネトルズ、チャンブリス、ライル、ピネラ、リヴァース、ランドルフと元の所属チームで実力を発揮しきれていない、あるいは出場機会に恵まれていなかった移籍選手だった。

たとえばランドルフは1975年にPiratesでメジャー初昇格を果たしたものの、同じ二塁のポジションに1試合7打数7安打のメジャー記録を保持しているレニー・ステネットがいたために、30試合出場で61打数10安打、打率.164にとどまっており、Yankeesへの移籍でレギュラーの座を掴んで、二番打者として打率.267、59得点、37盗塁の数字を残している。

Yankeesにとってセカンドは伝統的に重要なポジションで、1920~30年代にかけてはのちに野球殿堂入りを果たしたトニー・ラゼリ、戦後はジェリー・コールマン、マーティン、1960年のワールドシリーズで敗戦チームからは異例のMVPに選ばれたボビー・リチャードソンなどを輩出してきたが、1960年代半ばからの低迷期には人材を得ておらず、Piratesの控え二塁手だったランドルフの才能を見出したポールGMの慧眼と、レギュラーとして起用し続けたマーティンの言わば共同作業で誕生した待望の正二塁手だった。

1976年からのYankeesを支えた選手たちの多くは、ポールが自身の野球人としての眼力と知識を駆使し、のちにBlue Jays、Mariners、PhilliesのGMとしてそれぞれのチームを黄金時代に導き、イチローのMariners入団にも奔走したスカウト部長のパット・ギリックが手足となって集めた人材で占められており、ハンターやジャクソンらの大物FA選手はむしろ例外的な存在だったと言える。

スタインブレナーの思惑通り、マーティンによって戦う姿勢を注入された1976年のYankeesは公式戦で前年より総得点を49点、チーム盗塁数を61増やし、チーム防御率を0.1ポイント向上させ、ネトルズが32本で初の本塁打王、マンソンが打率.302、105打点、盗塁阻止率.350の活躍でMVPとゴールドグラブ賞を受賞し、ア・リーグ東地区で97勝65敗、勝率.610で2位Oriolesに10.5ゲーム差をつけて初の地区優勝を果たした。

ALCSは、奇しくもマーティンにRangers監督の座を追われる形になったホワイティー・ハーゾッグ率いるRoyalsとの対戦になったが、2勝2敗のタイで迎えた最終第5戦(当時は3戦先勝制)で、9回裏にチャンブリスの劇的なサヨナラ本塁打が飛び出し、1964年以来12年ぶりのペナント奪還を果たした。

しかし前年の覇者Redsを指揮するスパーキー・アンダーソンとの顔合わせとなったワールドシリーズでは、ピート・ローズ、ジョニー・ベンチ、ジョー・モーガン、ジョージ・フォスターらの「ビッグ・レッド・マシン」に4試合で計42安打、4本塁打、22点を献上する一方、決して強力とは言えなかったReds投手陣に打率.222、8得点に抑えられてストレート負けを喫し、第4戦では判定に抗議したマーティンが退場処分を受ける後味の悪い敗戦となった。

このシリーズでRedsがベンチの2本塁打を含む二塁打10本、三塁打3本、本塁打4本を記録したのに対し、Yankeesの長打は二塁打3本、三塁打、本塁打各1本の計5本にとどまったことが、スタインブレナーにある「決意」をさせた。

(後編につづく)

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箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。
プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。

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