1. TOP
  2. プロ野球
  3. 名門New York Yankeesにおける「監督史」⑥ビリー・マーティンの“酒と喧嘩の日々”(後編)

名門New York Yankeesにおける「監督史」⑥ビリー・マーティンの“酒と喧嘩の日々”(後編)

 2017/11/14 プロ野球
  69 Views

「フェンウェイ・パークの激突」と世界一奪還

1976年のワールドシリーズでYankeesがRedsに0勝4敗のストレート負けを喫すると、オーナーのジョージ・スタインブレナーは大きな決意を持ってオフのFA市場に参戦した。

彼の目的はこの年のマーケットで最大の目玉だったレジー・ジャクソン(1946~)だった。

ジャクソンはAthleticsの中心打者として1972年からのワールドシリーズに貢献したあと、1976年にOriolesへトレードされ、シーズン終了後にFA資格を得ていた。

AthleticsとOriolesでの10シーズンで計281本塁打、824打点を記録し、本塁打王2回、打点王1回を獲得したリーグ屈指のスラッガーであり、1973年のワールドシリーズでは6試合で打率.310、1本塁打、6打点で、アスMVPに選ばれるなど大舞台での強さで知られており、いかにも派手好きのスタインブレナーのメガネにかなう選手だった。スタインブレナーは当時としては破格の5年総額300万ドルでジャクソンとの契約にこぎつけている。

Embed from Getty Images

しかし監督のマーティンは、Yankees打線にミッキー・リヴァース、グレイグ・ネトルズ、クリス・チャンブリス、スイッチヒッターのロイ・ホワイトと打線に左打者が多かったことから、トレードで右打ちの外野手を獲得することを希望しており、ジャクソンの獲得は全くの想定外だった。

しかもジャクソンはスター選手にありがちな自己顕示欲の塊で、球団関係者やメディアはマーティンと相容れないのではないかと危惧した。

Tigers監督時代の1972年、マーティンはア・リーグ優勝決定戦シリーズでジャクソンを擁するAthleticsに敗れた時、「私はジャクソンが嫌いだが、彼が私のためにプレイすることになったらおそらく好きになるだろう」と語ったことがあったものの、春季キャンプにジャクソンが初めて姿を現した時には歓迎のそぶりを見せることはなかった。

さらにシーズンに入ると、開幕前にキャプテンのサーマン・マンソンについて語ったコメントが彼を侮辱したかのように曲解して報道されたことからがジャクソンはチーム内で孤立するようになり、マーティンもジャクソンを特別扱いせず、5月の打率が.212と極端に悪かったこともあって彼が望んでいた四番で起用しようとしなかった。

ア・リーグ東地区ではRed SoxやOriolesの後塵を拝する毎日が続き、ジャクソンの存在をめぐってチーム内に不穏な雰囲気が漂っていた6月18日、フェンウェイ・パークでの試合中、ついに充満していた引火性のガスが爆発する。

この試合、ジャクソンは二塁打1本を含む3打数2安打を放っていたが、Red Soxに4対6でリードを許していた6回裏、のちに野球殿堂入りを果たした右の強打者ジム・ライスがライトに打ち上げたファウルフライを、全力で打球を追わなかったジャクソンが捕球できなかったのを見たマーティンは、投手と外野手を同時交代させ、ジャクソンに代わって守備要員のポール・ブレアを右翼の守備位置に送った。

メジャーでは監督がイニングの途中で本人の意思に反して守備位置から引っ込めるのは選手への侮辱行為と受け取られ、ジャクソンはダッグアウトに戻ると気色ばんでジャクソンに詰め寄った。

「俺が何をしたって言うんだ!」

「お前は全力でフライを追わなかった。誰であろうとオレの前では全力プレイを怠ることは許されないんだ!」

マーティンとジャクソンは激しく罵倒し合い、あわや掴み合いになる寸前でコーチとして復帰していたヨギ・ベラらによって止められた。

この試合は全国中継されていたため、二人のいがみ合いが一瞬にして全米に知れ渡ることになり、チームの調子がなかなか上昇しなかったこともあり、新聞はこぞってマーティンの途中解任説を連日書き立てた。

Embed from Getty Images

7月上旬、遠征先のミルウォーキーでは、マンソンとピネラがスタインブレナーに面談を申し入れ、マーティンをクビにするのかしないのかハッキリさせてほしいと直談判しているところへ、泥酔したマーティンが乱入してスタインブレナーと口論するハプニングまであったが、スタインブレナーが翌日、マーティンが引き続き残りシーズンの指揮を執ると声明を出すと、チーム内のいざこざは沈静化に向かっていった。

8月に入り、マーティンによって四番で起用されるようになったジャクソンは後半戦の64試合で61打点をマークするなど本来のクラッチヒッターぶりを取り戻し、ヤンキースも8月23日に首位の座を取り戻すと閉幕まで一度もその座を譲ることなく、2位Red Soxに2.5ゲーム差をつけ、100勝64敗、勝率.630で2年連続の地区優勝を決めた。

Royalsとのア・リーグ優勝決定戦シリーズを再び3勝2敗で制しリーグ連覇を果たしたYankeesは、1963年以来となるDodgersとのワールドシリーズに臨んだ。

前回は第1戦でサンディー・コーファックスに当時シリーズ記録の15奪三振を喫するなど4戦全敗で敗退していたが、14年ぶりの対決では延長12回までもつれ込んだ末、ジャクソンの守備固めで途中出場していたポール・ブレアのサヨナラヒットで初戦を制すると、1勝1敗で乗り込んだロサンゼルスでの3、4戦もジャクソンの本塁打などで勝利して王手をかけた。

第5戦を落とし3勝2敗でニューヨークに戻っての第6戦は、スティーヴ・ガーヴィーの2点タイムリー三塁打とレジー・スミス(のち巨人)のソロ本塁打で4回表までDodgersに3対2とリードされたが、4回裏、マンソンを一塁に置いてジャクソンがDodgersの先発バート・フートンの初球をライトスタンドに叩き込んで逆転すると、残りのイニング、ヤンキースタジアムは「レジー・ジャクソン・オンステージ」と化した。

5回裏には二番手のエリアス・ソーサからライト後方へ2ラン、8回裏には4番手でナックルボーラ―として知られたチャーリー・ハフからセンターのバックスクリーンへソロアーチを、それぞれ初球を叩いて放ってDodgersに引導を渡し、8対4で勝利したYankeesは1962年以来15年ぶりに世界一を奪回した。

第6戦だけで3本塁打5打点、シリーズ6試合合計で打率.450、5本塁打、8打点をマークしたジャクソンはシリーズMVPに選ばれ、この大活躍で以後、10月の大舞台に強い千両役者の意味で「Mr. October」(10月の男)の尊称を奉られることになった。

マーティンの采配にご満悦だったスタインブレナーは5万ドルの特別ボーナスと高級車リンカーン・コンチネンタルを贈っている。

三原脩は「アマは和して勝つ、プロは勝って和す」の名言を残している。

シリーズ最終戦終了後のYankees側クラブハウスでは、シャンパンまみれになりながら、シーズン中いがみ合い、罵り合いを続けたスタインブレナー、マーティン、ジャクソン、マンソンが抱き合ってはしゃぐ姿が見られた。

これでリリーフエースとして13勝5敗26セーブを上げたライルが、移籍後に発表した著書の題名にした「Bronx Zoo」(ヤンキースタジアムと同じNY市ブロンクス区にある世界的に有名な動物園に例えて、内部抗争に明け暮れる球団を皮肉ったもの)のカオス(混沌)にも幕が下ろされるかと思われたが、野獣たちは決して咆哮を止めることはなかった。

スポンサーリンク

ジョージとビリー~愛と憎しみの日々

ワールドシリーズ制覇を見届けるかのように、スタインブレナーによる買収以来、球団運営の最高責任者としてチーム編成を指揮してきたゲイブ・ポール球団社長兼GMが退任し、Indiansの球団社長に転身したが、常に爆発の危険をはらんだスタインブレナーとマーティンの間を取り持ってきたポールが去ったことは1978年に起こる出来事の不吉な前兆となった。

Embed from Getty Images

公式戦が開幕すると、4月は10勝9敗だったが、メジャー4年目で前年に16勝を上げていた左腕のロン・ギドリーが2度目の先発となった4月13日のWhite Sox戦から13連勝を記録するなど、5月は19勝8敗でア・リーグ東地区首位のRed Soxに3ゲーム差まで迫ったものの、6月は14勝15敗と負け越し、7月も1日から17日までの14試合で4勝10敗と負けが込み、前半戦終了時点でRed Soxに14ゲームまで引き離され、Orioles、Brewersにも抜かれて、47勝42敗の地区7球団中4位に後退していた。

前年の世界一にも決して満足していなかったスタインブレナーは、サイ・ヤング賞を受賞したライルがいるにもかかわらず、オフにFAでリッチー・ゴセージ、ロリー・イーストウィックの救援投手2名を獲得し、特にゴセージとはライルを上回る好条件で契約したことから、チームには新たな不協和音が生まれていた。

キャプテンのマンソンはひざの故障に悩まされ、リードオフマンのリヴァースは競馬に夢中になって走り込みを怠りマーティンによってスタメンを外されることが増えていた。ジャクソンとの関係も修復されたとは言い難く、特に前年以上にDHでの起用が増えたことにジャクソンは不満を募らせていた。

7月17日、本拠地ヤンキースタジアムでの対Royals戦でついに両者の関係は決定的な亀裂を生じた。延長10回裏、先頭打者のマンソンが出塁すると、マーティンはこの日四番に入っていたジャクソンにバントのサインを送った。ジャクソンが1球目にバントの構えを見せ、Royalsの内野陣が前進すると、マーティンはサインをヒッティングに切り替えた。

前年まで通算でわずか13犠打、この時点で1972年のAthletics時代に記録した4個を最後に5シーズン半もバントをしていなかったジャクソンに送らせる意図はマーティンにはなく、あくまでも守備陣を前に出させるのが目的のサインだったが、ジャクソンは前年のボストンにおける途中交代劇同様、自身への侮辱だと受け取った。

不穏な空気を察した三塁コーチのディック・ハウザー(のちYankees、Royals監督)はジャクソンのもとへ歩み寄り、サインの変更を伝えたが、ジャクソンは2球目もバントの構えをして空振り、3球目をファウルしたあと、4球目もバントを失敗して三振に倒れ、試合も7対9で敗れた。

試合後、マーティンは怒りに満ちた表情で記者会見に臨み、ジャクソンを無期限の出場停止処分にしたことを発表した。

そのあとYankeesはロードに出発し、Twins、White Sox相手に5連勝したが、次の試合地カンザスシティーへ移動するためシカゴのオヘア空港で飛行機の出発を待っている間に一杯ひっかけた状態で、ジャクソンとのトラブルについて尋ねた記者の質問にこう答えた。

「一人は生まれながらのウソつきで、一人は前科者だ」

ウソつきは言うまでもなくジャクソンのことだったが、問題は「前科者」の方だった。

スタインブレナーには1972年に米大統領に再選されたリチャード・ニクソン陣営に違法な献金を行ない、彼個人と経営する会社を合わせて罰金計3万5000ドルの有罪判決を受け、1974年に当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンから15カ月のオーナー資格停止処分を課せられた前歴があった。

自身の意に沿わない補強を行ない、采配にも日常的に口を出すスタインブレナーへの不満を募らせていたうえ、飲酒で正常な判断力を失っていたマーティンが、どの球団でもタブーのオーナー批判を行なったことは明らかだった。スタインブレナーはただちにマーティンの辞任(実質的な解任)を発表し、ハウザーが代理監督として1試合指揮を執ったあと、White Soxの監督を途中解任されていたボブ・レモンが後任の座に就くことが発表された。

しかし、マーティンは「よそ者」のスタインブレナーやジャクソンと違って選手時代からYankeesの生え抜きで、チーム再建への貢献度は背番号通り「ナンバーワン」であると地元NYのファンは受け止めており、監督交代人事が発表されたとたん、球団事務所へは抗議の電話が殺到した。

たまりかねたスタインブレナーはマーティンをNYに呼び戻して話し合いを行なった末、7月28日のOld Timers Dayで、1978年の残りシーズンと翌79年の指揮をレモンが執ったあと、1980年にマーティンが監督として復帰することを発表し、満員の観客で埋まったヤンキースタジアムの観客席は大歓声に包まれた。

レモンへの監督交代後、ヤンキースは8月に19勝8敗、9・10月に23勝9敗と驚異的な追い上げを見せ、一方で前半戦57勝26敗、勝率.687で首位を独走していたRed Soxが、後半戦は42勝38敗、.525と足踏みし、特に9・10月は15勝16敗と負け越したため、公式戦162試合全日程終了時点でYankeesとRed Soxが99勝63敗、勝率.603の同率首位に並んだ。

Red Soxの本拠地フェンウェイ・パークで地区優勝を決めるワンゲームプレイオフ(チーム、個人記録とも公式戦に算入)が行なわれ、遊撃手バッキー・デントの逆転本塁打と、ギドリー、ゴセージのリレーでヤンキースが5対4で勝利し、歴史的な大逆転劇で地区優勝を決めた。

続くALCSでもRoyalsを下してリーグ3連覇、Dodgersと2年連続の顔合わせとなったワールドシリーズでも2試合を先勝されながら4連勝で2年連続世界一となった。

翌1979年、マーティンはチームの不振もあって予定よりも早く6月19日に復帰したがチームを上昇させることはできず、8月2日には自家用機を操縦してオハイオ州の自宅に帰宅しようとしていたマンソンが、アクロン空港で着陸に失敗し、32歳の若さで事故死する悲劇が起こった。

マーティンとっても就任以来頼りがいのあるキャプテンだったマンソンの死から立ち直れないまま、Yankeesは89勝71敗、勝率.556で首位Oriolesから13.5ゲーム差離されての4位に終わり、マーティンもオフに旅行先のミネアポリスに滞在中、ホテルのバーで喧嘩騒ぎを起こし、二度目の解任に追い込まれている。

スポンサーリンク

「ビリー・ボール」と「パインタール事件」

メジャーリーグではジョン・マグロウのようにチームの先頭に立って陣頭指揮を執るタイプの監督を「オーヴァーマネジャー」、それとは対照的に選手を後方から見守るコニー・マックのような監督を「アンダーマネジャー」と呼ぶ。

マーティンは同時期にOriolesを率いたのちの殿堂入り監督アール・ウィーヴァーと並んでメジャーリーグ最後の「オーヴァーマネジャー」と言うべき存在だった。ともに選手を叱咤激励し、試合では常に先頭的で、審判の判定に激しくかみついた。

マーティンはYankeesでの現役時代、さらにはマイナーのOakland時代からケイシー・ステンゲルの下でプレイしており、そのステンゲルは選手としてGiantsに在籍していた時にマグロウの薫陶を受け、監督になってからもマグロウのもとで学んだプラトーンシステムなどを活用していた。当然、マーティンも監督として多くのことをステンゲルから学んでおり、言わばマグロウの「孫弟子」とも言える。

強力打線によってビッグイニングを演出し、強力投手陣と守備力で点に抑えるスタイルはウィーヴァーと共通していたが、マグロウの孫弟子だけあって、マーティンはウィーヴァーが嫌っていたヒットエンドランを多用し、師であるステンゲルがヤンキース時代にあまり重視していなかった機動力も采配に加味していた。

このスタイルはやがて1980年にAthleticsへ転じたあとさらに進化し、「ビリー・ボール」の異名をとるようになる。

Athleticsでのちに通算1406個・シーズン130個のMLB最多盗塁記録を樹立したリッキー・ヘンダーソンをレギュラーに抜擢するなど若手の育成に手腕を発揮したマーティンは、1981年に4球団目での地区優勝を果たすが、リーグ優勝決定戦シリーズではレモンが再び指揮を執っていたYankeesに3戦全敗で敗退し、2球団でのリーグ優勝は果たせなかった。

1982年シーズン終了後、Athleticsを解雇されたマーティンは、翌83年に三たびヤンキースの監督に就任したが、91勝71敗、勝率.562で首位Oriolesと7ゲーム差の3位に終わる。

Embed from Getty Images

この年にマーティンがもっとも注目を集めたのは、7月24日、ヤンキースタジアムでの対Royals戦での出来事だった。

1976年、80年、90年と三つのディケード(年代)で首位打者を獲得してのちに野球殿堂入りを果たす強打者ジョージ・ブレットが9回表にホームランを放った際、バットに塗られた滑り止めの松ヤニ(パインタール)が規定よりも長いとマーティンが審判団にクレームをつけ、いったんはこれが認められてブレットの本塁打が取り消される。

この「パインタール事件」は、後日、ア・リーグ会長によってブレットの本塁打が認められ、8月18日にサスペンデッドゲームとして再開されたが、マーティンはフィールド外でのトラブルもあって、同年末に三度目の解任となった。

1985年には開幕からの16試合で6勝10敗と負けが込んだ時点でヨギ・ベラと交代で四たびYankees監督の座に就いたが、この解任劇に怒ったベラはYankeesと絶縁し、スタインブレナーの謝罪を受け入れた1996年までヤンキースタジアムに姿を見せることはなかった。

マーティンはBlue Jaysと最後まで地区優勝争いを演じたものの、最後は2ゲーム差及ばず地区2位に終わり、シーズン終了後にかつての部下だったルー・ピネラと交代している。

翌1986年にマーティンが選手、監督時代を通じて背負ってきた背番号「1」が永久欠番に指定された段階で、マーティンも楽隠居かと思われたが、ピネラのもと、同年90勝72敗で2位、翌1987年も89勝73敗で4位に終わると、スタインブレナーはマーティンに5度目の指揮を委ねた。

1988年は4月に16勝7敗、5月も17勝9敗と出足好調で、4月、5月と地区首位を維持していたが、6月に入ると1日からの18試合で7勝11敗と負けが込むようになって2位に後退すると、6月22日のTigers戦終了後にマーティンは5度目の解任を通告された。そしてこのタイガースタジアムにおける2対3の敗戦が、彼にとって最後のユニフォーム姿となった。

1983年から3回、延べ3シーズンにわたったマーティンの後期監督時代、Yankeesは222勝153敗、勝率.592で、1975年から78年までの第1期監督時代で残した勝率と全く同じだったが、同地区のライヴァルであるTigers、Red Sox、Oriolesばかりでなく、ドミニカ共和国からの選手供給で急速にチーム編成を強化したBlue Jaysにも名を成さしめることになった。

さらにFA制度導入から10年が経過し、選手のサラリーが年々高騰するのと比例して権利意識も強くなったなかで、マーティンのような典型的オーヴァーマネジャーは次第に時代遅れになっていったのも、ペナントと世界一に再びたどり着けない一因となった。

加えて生来の短気さ、感情の激しさに起因するオーナー、フロント、選手、さらにはファンとのトラブルが、監督生活を続けるうえでの継続性に大きな阻害要因となったのは惜しまれる。

5度目の解任後、スタインブレナーのもとで特別顧問の役職を与えられていたマーティンは、1989年12月25日、NY郊外のフェントンで同乗していた友人の運転するピックアップトラックが凍結していた道路でスリップして崖から約91メートル下に転落し、病院に搬送したものの死亡が確認された。

マーティンと友人は飲酒しており、運転していたのはマーティンだったとの説もあるが、死後検死が行なわれなかったため真相は不明のままとなっている。

マーティンの訃報を受けて、スタインブレナーは声明を出し、「家族の一人を亡くしたのと同じだ」とその死を悼んだ。

葬儀はマンハッタンのセントパトリック聖堂で行なわれ、亡骸はスタインブレナーの計らいでベーブ・ルースと同じニューヨーク郊外の「ヘブンズゲート墓地」に埋葬された。

マーティンの通算勝利数1253勝はメジャー歴代38位で、勝率.553は野球殿堂入りした監督と比較しても同時代に監督を務めたスパーキー・アンダーソン(.545)や、2013年に同時に殿堂入りしたトニー・ラルーサ(.536)、ジョー・トーリ(.538)を上回り、ボビー・コックス(.556)に匹敵する。

優勝回数でも世界一1回、リーグ優勝2回、地区優勝5回を記録しているが、死後四半世紀を経た現在も殿堂入りの栄誉に浴していない。

Embed from Getty Images

現役時代からの飲酒癖に起因する数々のトラブルに加え、「パインタール事件」が野球人としてのモラル面で殿堂入りの障害になっているとも言われているが、一度は地に落ちたYankees帝国を先頭に立って再建し、「ビリー・ボール」で野球界を席巻してロッド・カルウやヘンダーソンらの名選手を育成した功績はマイナスの評価をはるかに上回る。

ぜひとも彼のレリーフがクーパースタウンの大ホールに掲額される日が来ることを祈念するばかりだ。

箭球兜士郎(やきゅう・とうしろう)
プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者●文

野球好きの人は『いいね!』をして下さい。役立つ情報をお届けします。



こちらも読まれています

data-matched-content-rows-num="3" data-matched-content-columns-num="2" data-matched-content-ui-type="image_stacked"

ライター紹介 ライター一覧

箭球兜士郎

箭球兜士郎

(やきゅう・とうしろう)

プロ野球監督アナリスト/野球記者/野球史研究者。

プロ野球監督を評価する数値として「監督評価ポイント」(Manager W-L percent plus Bonus Points=MWLBP)を考案。今後、「野球監督の歴史」をその起源から随時発表していくとともに、旧態依然とした旧日本軍的「体育会系体質」から脱却できない日本のプロ野球監督を冷徹に評価・発表する活動を展開していく予定。


この人が書いた記事  記事一覧

  • 阪神タイガースを2度優勝に導いた男・藤本定義

  • 巨人と阪神に優勝をもたらした男~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義②

  • 「プロ野球の監督評価ポイント」を数値でランキングする

  • 巨人と阪神にペナントをもたらした男・~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義①

関連記事

  • 「プロ野球の監督評価ポイント」を数値でランキングする

  • 名門New York Yankeesにおける「監督史」⑤ビリー・マーティンの“酒と喧嘩の日々”(前編)

  • 巨人と阪神に優勝をもたらした男~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義②

  • 阪神タイガース岩田稔選手が立ち向かう糖尿病と食事療法

  • 名門New York Yankeesにおける「監督史」④ ラルフ・ハウク~ヨギ・ベラ

  • 巨人と阪神にペナントをもたらした男・~日本プロ野球における「プロフェッショナル監督の始祖」藤本定義①