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沖縄初の準優勝を成し遂げた 沖縄水産高校野球部 栽 弘義監督

 2016/11/28 高校野球と甲子園
 

物資の乏しい戦後の沖縄で手作りでグラウンドを整備し、更には米軍基地に駐在していた米兵のメジャーリーガーからヒントを得てウエイトトレーニングを取組み、チームを強化していった栽弘義監督。その努力が結実し、沖縄勢初の「甲子園・決勝戦」へと駒を進むになった。

甲子園2年連続準優勝の快挙

昭和55年、豊見城高校から沖縄水産高校へ異動となった栽監督。チーム強化はさらに進み、沖縄球児のかつてのひ弱さは消え、パワフルな野球が定着する。そして、平成2、3年(第72・72回)に成し遂げた夏の甲子園2年連続準優勝は、全国に肩を並べるチームづくりを目指して以来、27年目にして訪れた快挙だった。

あのときの甲子園では、「沖縄を勝たせたい」というファンの声や、頂点まであと一歩の結果に惜しむ声が限りなく聞こえた。しかしながら、栽監督本人は、当時を淡々と振り返ってこう言う。

「決勝の朝、僕がやけに落ち着いていたので、それをマスコミや周囲の人がとても驚いていた。でも、何でなのと思ったよ。だって、たとえ負けても沖縄最初の準優勝監督になれる。うれしさの他に何があるっていうの。確かにあの決勝戦は、野球という枠を超えて歴史学者だとか野球関係者以外の人が一番たくさん集まり、異質のものだったと思う。けれど物のない時代に育ち、小さいころから色んな経験をしてきた僕には、うれしさ以外の何ものでもなかったね。踊り出したいくらいだった」

そう微笑むと、顔に刻まれた深いしわがともに弾んだ。逃した日本一より「沖縄がここまで来られた」という素直な喜び。そこには、甲子園という舞台に対する執着心は微塵も感じられなかった。

「選手たちは思い出を作り、進路などその先の選択肢にもいい影響を与えるけど、監督としては甲子園のグラウンドがどうのこうのより、たくさんの人に迷惑をかけてきたなと。勝ち負け以前に、お金がとてもいることです。沖縄の人々にとってはとても大変。本土とはまた違い、甲子園は勝てば行けるが、行くまでにはいくつものハードルがある。ひとりの力ではどうにもならず、そんな中でやっと手にできた結果です。周りのみんなに感謝だね」

甲子園では絶対旅館!しかも大部屋

 ところで、今ではホテルに宿泊し、それぞれ個室で寝泊まりするのが当たり前になった。でも、当時は多くのチームが甲子園周辺にあった旅館を利用。時代の変化ではあるが、ふすまを開ければ大広間となりミーティングが即できるし、選手同士、また監督も選手を深く知り理解する絶好の機会となっていた。それが一転してこんな時代になったことを天国にいる栽監督もさぞ驚いているだろうが、だからこそ、独特のスローな口調で語ったこんなセリフが懐かしく思い出される。

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「甲子園では絶対旅館。はやりのホテルで一人部屋なんて絶対ダメ。大部屋じゃないと、選手の力が上がらない。みんなでしゃべる間に、士気が高まるんだから。池田高校の蔦文也先生もよく言っとった。“裁はセメントに泊まっているからダメ。野球はふすまだぞ”とね(笑)」

蔦監督との縁では、また違った思い出がある。沖縄での招待試合に池田高を呼んだときのことだ。蔦監督が思わぬ高熱で来られなくなり、代わりに帯同して来たのが校長先生だった。裁監督に対してメンツが立たぬと、まさに誠心誠意の配慮である。

「まさか校長先生が来るとは。無理にお願いしたそうで、改めて蔦先生の姿勢に敬服しました」

 栽監督と蔦監督。強烈な個性とともにかつての甲子園を盛り上げた名伯楽。両者とも、若きころに苦労を重ね、熟年となってから花開いた指導者である。

沖縄は変わっていくべき

取材当時、栽監督は私生活では孫が3人。最近生まれた男の子は「ハナペチャじゃなくてハンサムなのよ」と、すっかりおじいちゃんの顔になっていた。

だが、そんな微笑みの裏側には、何ものにも代えがたい裁監督ならではの思いがあった。監督には3人の姉がいたが、みな戦争で亡くなった。どこで死んだのかもわからない。たったひとり生き残った自分。

「だから、僕からしか子孫が広がらない。僕には従兄弟がいないんです。でも幸い長男のところに男の子が生まれ、三代続く。甲子園準優勝とともに、こんなにうれしいことはない」

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人々の心に様々なかたちで残る沖縄の歴史。国際通りの賑わいとは裏腹に、複雑な思いがあるはずだ。でも、最後にそれをやんわりと否定し、栽監督は遠くを見つめるようにこう語った。

「僕自身、肉親を亡くし、戦争を肯定する理由はさらさらない。だけど、沖縄を語るのに戦争が前面に出てくるのはもうおかしい。いつも心の中に置いておくような教育をしたうえで、これからの沖縄を考えていく両輪が大事だと思います。僕の野球観が、どんどん変わっていくのと同じように・・・・」
 
 時を経て、沖縄は本当に強くなった。平成11年、沖縄尚学がセンバツ大会で初優勝。そして、20年には2度目の優勝。さらには22年、我喜屋優監督率いる興南が春夏連覇という偉業を成し遂げた。18年春夏の、石垣島から甲子園をつかんだ八重山商工の活躍も記憶に残る。

追記すれば、2人の選手をプロへ送り、八重山商工から再びの甲子園を夢見続けた伊志嶺吉盛監督は、来年より大分の日本文理大学付属高校で監督として指揮を執ることになっている。

【了】

藤井利香●文
小島 智●写真

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ライター紹介 ライター一覧

藤井利香

藤井利香

東京都生まれ。日本大学卒。
高校時代は(弱小)ソフトボール部の主将・投手・4番として活躍。大学では、体育会ラグビー部の紅一点マネージャー。関東大学リーグ戦グループ・学生連盟の役員としても活動。
卒業後は商社に勤務するも、スポーツとのかかわりが捨てがたく、ラグビー月刊誌の編集に転職。5年の勤務のあと、フリーライターとして独立。高校野球を皮切りに、プロ野球、ラグビー、バレーボールなどのスポーツ取材を長く行う。現在は、スポーツのほかに人物インタビューを得意とし、また以前から興味のあった福祉関係の取材等も行っている。

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