石川県屈指の強豪校を作り上げた星稜高校 野球部 山下智茂監督
山下監督の甲子園のインタビューで聞くあの丁寧な言葉よりも、さらに穏やかで優しい響き。
土地柄をしのばせる柔和な表情。
しかし、ひとたび視線がグラウンドに向けられると、眼光は鋭く甘さは消える。
星稜高校は昭和51年のベスト4を皮切りにほぼ毎年のように甲子園にコマを勧めたが60年から4年間、空白の時期を過ごしている。
地元の英雄の衰退は人々をずいぶんと落胆させ、しまいには山下監督への嫌がらせをする人まで出た。
高校野球の影響力というは、本当に恐ろしいものである。
「家に入れば雑音が入るんでね。グラウンドのベンチで寝たこともありました。そこが唯一の場所だったんですよ。」
さり気なく言うその言葉には驚かされた。当時は入学難も手伝って選手が集まらず、一度は「これで甲子園はもうない」と腹をくくったほどだった。
厳しい野球から楽しんでやる野球へ
いつか行けると信じ、がむしゃらだった若い頃に比べ、不安ばかりが先走り、眠れぬ夜は数え切れなかった。
「伝統校の監督さんは、毎年毎年その不安と戦ってるんではないですかね。私の4年間は過ぎてしまえば何でもないが、本当に長かった。でもじきに時代が平成になって、そこで思ったんです。自分の野球を変えてやろうと。今ではどうしても監督の存在が全面に出てしまったが、これからは選手がのびのびと動くような明るく積極的な野球をしよう。そう気持ちを切り替えたことが、結果的に良かったようですね。」
きっかけは、生まれて初めて丸4日間、頭の中を空にしたことだった。
常にグラウンドに立っていた自分をサイパンの平和そのものを物語るようなビーチに立たせ、野球以外のものを目に入れた。そこで得た答えが
”楽しみの中の野球”だった。
今までの野球というのは、苦しんで苦しんで苦しんだ中から喜びを見いだすものだと思っていました。でもそうではなくて、楽しみの中からまた楽しみを見出さなねばならんのじゃないかと、そんなふうに思うようになったんです。」
40歳を過ぎてやっと気がついたと、山下監督は笑った。厳しい野球から、監督も生徒も楽しんでやる野球。その時、昭和から平成へと移り変わり、山下野球も新しい時代に入っていった。
「根性をつけるにしても、きちっとした練習をやりながらつけていかねば。どういう目的でやるのか、それが分かっていないようではいい練習は出来ない。昔のようにただ漠然と押しつけていたら生徒はついてこんでしょう。千本ノックなどを平気でやったときがありましたが今思うとそのころの生徒に会わす顔がありません。よくついて来てくれたもんです。感謝しとりますよ。(笑)」
選手たちはノビノビと実に楽しそうに白球を追っていた。もちろん年中落ちる雷は相変わらずの迫力である。ボケッとしようものなら即正座!しかし陰湿さや暗さは見られない。
山下監督は個人の指導法にもかつてとは違った考えを持っている。以前は全員に同じような教え方をしていたが今はそれは平等ではないと思っている。育ち、現在の環境、体力によって個人差があるからだ。それに応じて個性を伸ばしてやらなければ平等とは言わないのだと。
バックネット裏で、新チーム40人余りの動きをじっと見つめる。生徒一人ひとりの特性を頭にたたき込む。その理解度は、ともすると肉親以上かもしれない。
「こうして損得考えずに突き進めるのも野球と子どもが好きだからですよ。」
照れるようにそう言って「松井、山口(哲治=神戸製鋼)のいたこの3年は本当に楽しかった。」と微笑んだ。
監督として野球を教え、社会へ巣立ってゆく選手たちをわが子同然に思う。
就任当時、多くない給料のすべてを野球につぎ込んだ真の情熱は願い月日を経ても変わることはない。
11月になると北陸の地に初雪が舞い、本格的に冬支度に入る。北国のチームはハンディが大きいというが、それをバネにするのが山下流である。
「野球は冬、上達します。気の遠くなるほど長いけれど、ひと冬越すと化けますよ。勝つのも楽しみ、生徒が育つのも楽しみ」
「日本一の高校生を育てれば、おのずと野球でも全国制覇、日本一になれるんじゃないかと、今はそう考えているんです。」
選手を追っていた視線が、見守る卯辰山のかなたへそっと向けられていた。
藤井利香●文
Flickr●写真
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