米軍基地のメジャーリーガーからヒントを得た男 沖縄水産 栽弘義監督
豊見城・沖縄水産を率いた栽監督。今では沖縄=強豪というイメージが定着しているが、実は何もないところからの出発で、当初は施設作り・環境つくりから始めないといけない「無い無いづくし」。自らの手で時間をかけて練習が充分にできる環境を作りあげた。そして沖縄野球のパワーの源となるヒントが沖縄本島の18%を占める米軍基地にあった。
工事現場でアルバイトをして学校の施設を
栽監督が、指導者になってからとくにこだわり続けてきたのが、選手が十分に練習できる施設づくりだった。
赤嶺賢勇投手で無名の豊見城高校を甲子園ベスト8に導いたあと、沖縄水産に赴任してきたのが昭和55年。当時は敷地だけがあり部員はわずか5名で、母校の糸満高校に用具を持参してもらい合同練習をしていたが、その後、毎年部員とともに整地して木を植え、バックネット、ブルペンと野球場らしく整備。月日を重ねて環境を整えた。
「自分たちの手でグラウンドづくりをする。それは同時に僕の力ではできにくい、精神的な思い出を選手の心の中に生むことができるんです。それに自分が手をかければ、いつまでも学校を訪ねていく理由がある。いくら僕の顔を、もう見たくないって言ってもね(笑)」
裁監督には、学生時代に自ら校舎を造った思い出もある。戦後まだ建物が茅葺きの時代、茅を狩り、セメント運びをして鉄筋を造った。ボール代を稼ぐため、練習の合間には工事現場でのアルバイトが日常だった。
「体はこのときからもうボロボロ。でも、そんなこと問題じゃない。僕はずっとこんな調子さ」
米軍基地のメジャーリーガーを見本に
沖縄の温暖な気候と、室内練習場こそないが2面のグラウンドを備えた沖縄水産の練習環境。そして、毎日取り組むウェイトトレーニングは、あのパワフルな打撃を生む野球の原点だった。手作りのウェイト器具をグラウンドに置き、最初に話題になったのは、あの蔦監督が率いた池田高校だが、さらに前、どこよりも早く取り入れたのは裁監督である。
その理由は明確だ。本土にはない、沖縄だけにあった素晴らしき見本。それを小学生の頃から目のあたりにしていたのである。
「アメリカには兵役があって、当時たくさん沖縄に来ていた。メジャーリーガーといえども免除はない。世界で最高といわれる選手が、このときすでにウェイトを率先してやっていた。中央の人より一歩進んだものを最初に見られたことは、幸せだったと思う」
自身も当時としては画期的ともいえる高校1年でウェイトトレーニングを練習に取り入れていた。効果や大切さは自らの経験に裏づけられている。若い時にやり過ぎると害になるといったさまざまな意見が飛び交うが、「筋肉が固くなるとか、よけいな筋肉がつくとか、それは絶対にない。とくに野球の練習をしながらであれば、問題になることはない」。
要は野球に必要な筋肉、故障しない体づくりとしてウェイトを行う。ただ、選手任せにすることは大変危険だ。ありがちな、中途半端なフォームでのトレーニングが一番危険である。
「体のうんと伸びるところから、うんと縮まるところまでやると柔軟性までもが養えるが、それを中途半端にやるから筋肉の可動範囲が狭くなってしまう。ましてフリーウェイトだと、逆に筋肉を痛めたりして危険。だから、指導者がいつも見ていないといけません」
正しいフォームの大切さは、フォーム改造に対しても同様だ。プロでもそれまでのフォームを簡単にいじってしまうとよく聞くが、フォームを変えるということは使っていない筋肉を使うことである。危険性への意識が薄いことに、同じ指導者として危惧の念を示す。
「使っていない筋肉は鍛えられていない。弱いわけだからすぐに壊れてしまう。この動きをするならどの筋肉が作用するとか、新しく使うところをきちんと知ってトレーニングと併用していかねばいけない。それをいとも簡単に・・・、恐ろしい話です」
むろんトレーニング方法も、時とともに研究され変化する。だから、栽監督は最新情報の入手にも人一倍熱心だった。方法は主に活字で、野球ばかりに偏らず「情報誌と呼ばれるものにはすべて目を通す」ほどの徹底ぶりだった。
今はインターネットで何でも情報が入る時代になったが、ただでさえ情報の遅い沖縄で〝学ぶ〟ことに対する意識は誰よりも負けなかった。
藤井利香●文 写真
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