宇部商業(山口県)玉国光男監督 4 ~ ブレずに指導・甲子園で24勝~
指導法は常にシンプルをつらぬく玉国監督。
練習方法から選手たちとの会話まで、やはりシンプルだ。
決してブレない指導法は甲子園で数々の名勝負を繰り広げてきた。
しかし、意外にも勝敗にはこだわらない。
それよりも、変えないことブレないことが大事と話す。
玉国監督は平成17年、監督業30年、同時に春のセンバツで念願の甲子園20勝を達成した。
(その後、通算成績24勝まで白星を積み重ねた。)
「済美の上甲さんが、20勝がまず監督としてのステータスだなんて言うもんだから、とりあえずは良かったかな。」
宇部商の甲子園といえば、代表的な形容詞が ” ミラクル ” だ。
昭和60年夏、清原和博 (西武~巨人~オリックス)、桑田真澄(巨人)のいたPL学園との決勝戦を戦った準優勝や
昭和63年の3回戦では完全試合寸前から逆転本塁打。
同夏も3回戦で1年生による史上初の代打逆転本塁打で勝利するなど、豪快かつ勝負強さを発揮している。
その一方で、平成10年夏のサヨナラ・ボークでの敗戦や、また前の試合からわずか18時間というインターバルにもかかわらず
好投した好永投手が、9回表に自らの併殺プレーミスからついに大量点を与えてしまった17年夏の準決勝。
ラストプレーまで淡々と表情を変えなかった彼の姿には、大の大人も心を揺さぶられるものがあった。
こうして記録と記憶、両者を残す不思議なチームが宇部商なのである。
ところが、そんな過去の戦績を持ち出すと、当の玉国監督はまるで部外者のような顔をする。
「なんでじゃろーなぁ。ワシにもわからん」と大きな声で笑い飛ばす。
「いつものことを、いつもの調子でやらせているだけ。甲子園に行ったらむしろそれが一番欠かせないと思っています。変えたらあかんのです。それに選手たちは周りの様子も見る余裕もないからやれんと違う?単純に目の前にあることしかやれないんだよ。逆い私などは、高校野球は監督同士の戦いとも言うけれど、ついつい相手を意識し過ぎて失敗してしまう。このサインを出したら見破られるかもしれないなどと思い、サインを出すタイミングが微妙に遅れてしまったり(笑)」
高校野球の審判をやった事が監督業で財産になった。
今や高校野球の名物監督のひとりと言っていい玉国監督だが、監督就任は実は降ってわいたような話だった。現役時代は昭和41年の宇部商初の甲子園出場に主将として貢献。
卒業後は半年間ノンプロの鐘淵化学でプレーしたが、体調不良から現役を断念し、翌年からは協和発酵宇部工場で準硬式野球にかかわっていた。
そして間もなく監督兼任となるのだが、多忙にもかかわらず新たに始めたことが、高校野球の審判だった。
「理由は高校野球が好きだったのと、山口県のチームが弱いと言われるのはどういうことなのか、この目で見たかったから」
県大会で球審はもちろん、決勝戦でも塁審の経験がある。だがそんな活動が低迷するチームに再起を促そうと発足したばかりのOB会の目に止まり、次期監督にと指名を受けたのだった。
「審判をやった経験が思いがけず、監督業に役立ちました。高校野球はどのようなチームを作るべきか、分かったからです。どういうところから指導していくものなのか?特にグラウンドのマナーなど、見ていて感じるものは多かった。いきなり監督になっていたら分からんかったでしょうね。いい角度から野球を見ることができました」
就任時、1年後輩の藤井久夫氏をスタッフに引き入れ、まず5年をめどにスタートした。ところが何のことはない。半年後の夏にはあっと驚く甲子園出場を決めてしまう。
「おかげで簡単にいけるものだと勘違いしてしまった。」と頭をかくが、以来、藤井コーチと二人三脚で通算16回の甲子園出場を果たしている。
玉国監督は高校3年の時、プロ野球のドラフト指名を受けている。西鉄に9位指名。すでに社会人入りを表明していたのでプロには進まなかったが、ひとつ違ったら、まったく異なる人生になっていたかもしれない。
「プロでも高校野球でも、いずれにしよワシは野球なんです。ゴルフもパチンコもせん、酒もたしなむ程度で趣味など全くなく、四六時中野球のことばかり考えている。職場では、本当に甲子園のテレビ中継に出ていた監督さん?なんて女の子に言われるし。心はいまだに少年みたいな男です。」
2006年に監督を勇退し現在は地元宇部の少年野球チームの監督として、引き続き指導者の道を歩んでいる。
最後に玉国監督はこう締めくくった。
「公立高校優位の山口県は一番、高校野球らしいところ。やっぱり山口、やっぱり宇部商。どこかの県みたいに私学の強豪ばかりなんて絶対に嫌だなぁ。(笑)」
【了】
藤井利香●文
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