桐蔭学園(神奈川県)土屋恵三郎監督 3 ~選手の親にも心を馳せて~
野球以上に礼儀を教え、更に不必要な上下関係を排除するなど「改革」を行なってきた土屋監督。
その目は選手の親御さんにも向けられていた。
土屋監督は高校、大学といずれも日本代表に選ばれ、法政大学では江川卓投手(元・巨人)とバッテリーを組んだ。
そして、社会人野球でプレーしている最中に母校から監督要請を受ける。
でもそのとき、土屋監督にはすでに家族があり、小さな娘もいた。
「中学生の同級生と22歳で結婚しちゃったのよ。だから指導者の道に入ることを一瞬ためらったんだけど、ポンと背中を押してくれたのがおふくろのひと言。”ここまでこれたのは誰のおかげか”という。でもこうも言われて嘆かれた。”あなたはずっと家にいない”って。(笑)」
高校、大学と合宿生活を続け、社会人になったと思ったらすぐに所帯を持った。
高校野球に携わるようになってからは毎日グラウンドの往復で、親や家族といる時間は当然のように限られた。
「この付近からほとんど出たことがない。プライベートの旅行だって子供が小さいときくらい。たとえ行っても、うちは寮だから選手たちが気になってすぐに帰ってきてしまう。家族の理解あっての自分でした。」
丸一日かかることは極力避け、オフにゴルフに誘われても断った。「先生はいつも学校にいますね」と事務方の人に笑って言われるほどだった。家で休めるのは正月三が日くらいだが、この日は教え子が入れ替わり立ち替わりやって来て、そうゆっくりもしていられない。
「教え子はよく彼女を連れてくるんです。私以外に誰か連れてきていませんかって、彼女から心配そうに聞かれたこともあったなぁ。(笑)」
大学でプレーする教え子たちは、シーズンごとに様子を報告しに来る。そのたびに土屋監督はポケットマネーで交通費と称した千円の小遣いを渡していた。社会人になってからはもちろんそんな事はしないが「毎日1万円を両替しておくのも日課だった。」と懐かしむ。
選手の親に手紙をしたためる土屋監督
そんな教え子たちから、ここ数年「監督は優しくなった」と言われるようになった。むろん、それについては否定はしない。
年齢を重ねれば重ねるほど多角度からものを見るようになり、心を砕くことが増えたのは確かだからだ。
「例えば、その子だけでなく、その子の親の事も考えるようになった。うちは全寮制だから普段の生活は親は全くわからない。心配だと思うんですよ。だからこの夏、ベンチ入りできなかった8人の3年生の親たちへ、それぞれ自筆で手紙を出しました。今年の3年生たちはみんな本当によくついてきてくれたんです。メンバーには落ちたけど、立派な高校野球生活だったときちんと伝えたいと思ってね。」
メンバー発表した夜、自宅でペンを走らせた。思っていた以上に時間がかかり、書き終わったのが日付も変わった翌日の3時ごろ。
そのまま車を走らせ郵便局の本局へ持っていき、「どんなに遠い子でも一両日中には届く」と速達で投函した。受け取った親はさぞ驚いたに違いない。その週末には3年生の送別試合が予定されていたが、親も子もこの日一日を心おきなく楽しめたことだろう。
指導者生活の途中には、長男も野球部員となり親子鷹で甲子園をめざした。
「息子がいたときは、やはりどこかやりにくく、うまく使ってやることができなかった。」と夢叶わなかった当時を振り返る。
「それも全ていい思い出。たくさんの人との出会いなど、何ものにも代えがたい財産になりました。長いようで、あっという間の30年間でした。」
神奈川は熾烈。それでも神奈川にこだわる
最後に改めて、熾烈を極めた神奈川での監督業について聞いてみた。
最後の甲子園出場は2003年春。毎年、県大会ではベスト8を大方キープし、最後の5年間に限っては夏の大会で準優勝2回、ベスト4が2回、ベスト8が1回。しかし最後の夏も多くの人々の期待を集めながら、9年ぶりの甲子園には届かなかった。
「残念です。でも僕は川崎で生まれ、高校から社会人まですべて地元でプレーし、指導者としてもこの地で勝負ができた。これが東京でも千葉でも、埼玉でもダメなんです。厳しい戦いではありましたが、納得のいく野球人生。これからの神奈川は、私学だけでなく公立校も力をつけてくると思う。底辺が広がれば更に野球界の発展につながる。楽しみです。」
力をつけるには、やはり基本が大事だという。
特に、キャッチボールとトスバッティング。それを指導者がいかに根気よく選手に教えられるか、である。
「あとはバント。これさえできれば少なくとも勝負ができる。バントはできる、できない以上に失敗すると流れも相手にいってしまう。
野球はこの流れをいかにつかむかがポイントだから、流れをつかみ、相手に流れを持っていかれないためにも基本を大切にしてほしい」
土屋監督は、今後、弱いチームを強くする。そんな夢もあるんだと言う。
また近い将来、これまで以上に素敵な笑顔に会えることを期待したい。
藤井利香●文
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