石巻工業(宮城県)松本嘉次監督 1 ~甲子園での経験を伝える伝道師になれ~
2012年春のセンバツに21世紀枠で出場した石巻工業(宮城県)。選手達も被災しながらも出場しその懸命なプレーは日本中から大きな声援をうけた。
チームを率いた松本嘉次監督は、選手たちにどのように甲子園というものを伝えたのか?
21世紀枠で甲子園に出場
東日本大震災から5年を経た今、
熊本で再び震災が起きた。
当事者でないと分からないであろう苦悩の数々。
それを思うと、心が痛む。
2012年春のセンバツに初めて姿を見せたのは、
被災地・宮城から出場の石巻工業。
1年後の2013年3月、指揮官の
松本嘉次監督に会いに行った。
あたたかくて、楽しくて、頼りがいは抜群。
そして何より、周りのために動ける人望のある男。
震災時も、先頭に立って避難所を守り続けた。
自らも大震災で被災したナインたち
2011年3月11日午後2時46分。
東日本大震災が列島を襲った。
宮城県の石巻工のグラウンドは、津波に襲われて1メートル以上水に浸った。
一塁側ベンチにはめ込まれている鉄のボードには、
この高さまで水が来たことを示すサビがくっきりと残っている。
野球部員たちが来る日も来る日もグラウンドからヘドロや瓦礫を運び出し、
他校の野球関係者ら多くの人々の支援を受けながら、
1年後には甲子園という大舞台へ。
さらには運命のいたずらか選手宣誓の大役を引き当てて、
阿部翔人主将の宣誓文がのちに国会答弁でも使われるほど人々の感動を呼んだ。
敗れはしたが、松本監督考案の
〝あきらめない街・石巻! その力に俺たちはなる!!〟
というキャッチフレーズどおり、
一時は逆転して大観衆を沸かせた試合も印象的だった。
試合前、松本監督が選手たちに言ったのは「ありがとうと思ってやりましょう」。
試合後、逆にスタンドから「ありがとう」と声をかけられた。
「負けたチームにありがとうだなんて。いろんな人にお世話になって感謝するのはこっちだべ。
感謝という字は、感じて謝るって書く。まだ自分に足らないものがあるから、
周りの人が声をかけ支援してくれる。それをいかに感じて謝れるか。
子どもたちは当たり前に感謝して、100%に近いくらいの力を出してくれました」
初戦敗退だったが、地元に戻っても多くの人からよくやったと称えられた。
期待の大きさを改めて感じ、ならばもっと勝ちにこだわるべきだったかなと考えもした。
でも、もし勝てば、また莫大な費用がかかってしまう。
被災地である地元にそこまでの負担はかけられない。
「これで良かったんだ」
心の中で自分なりの答えを出した。
東日本大震災・そして甲子園での経験を伝え続けろ!
松本監督へのマスコミ取材は前年秋の県大会で準優勝して以来増え続け、
甲子園では記者が室内練習場に入り切らないほどの人気ぶり。
ついには民放テレビのドキュメンタリー番組の主人公になり、
まさに時の人となった。
そこまで人が寄ってくるにはそれなりの理由がある。
松本監督の姿勢は「来るものは拒まず」。
同じことを何回聞かれようとも、全部きちんと答えていった。
取材が練習の邪魔になることもあっただろう。
でも、嫌な顔はひとつも見せない。
答える義務があると考え、そして、伝えてほしいと思っていた。
そんな松本監督の姿に、心揺さぶられた記者も少なくなかったはずだ。
選手たちにも「伝道師になりなさい」と、言い続けた。
甲子園を経験した3年生は13年春、卒業していったが、彼らの合言葉は「動けば変わる」。
「彼らは一生しゃべれる内容を持った。どこへ行っても聞かれるはずだから、答え続けろ。そして、その言葉に責任を持ち、恥じない生活をしなさい。止まることなく動けばきっと変わる。この学年はね、個人の力はなかったけど、何かをしようというときはひとつになるのが得意だった。そういう力を、また新しい場所で皆が見せてくれたらと思います」
震災直後、多くの選手が自宅を流されるなど被災したが、
心の支えとなったのが、松本監督のこの
「動けば変わる」だった。
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