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創立100年。初代天皇杯王者!日本最古のサッカークラブチーム『東京蹴球団』に見るマインドとは

 2016/11/12 サッカー
 

日本で一番古いサッカーチームをご存知だろうか?答えは「東京蹴球団」。大正6年に創設され現在でも活動中のチームだ。100年を越えてチームを存続するアマチュアチームは稀有と言ってもいいだろう。今回はそんな「東京蹴球団」の成り立ちと歴史。そして「これから」について焦点をあてる。

日本最古のサッカーチーム『東京蹴球団』

東京蹴球団というサッカーチームをご存知だろうか。現在(2016)、東京都社会人サッカーリーグ1部に所属するアマチュアチームである。

同チームの創立は1917年。和暦でいうと大正6年、ロシア革命が起こった年だ。この年、日本で行われた第3回極東選手権大会のサッカーに、日本代表チーム(東京高等師範、現・筑波大学)が参加した。日本サッカー初の国際試合であった。結果は中国(0-5)とフィリピン(2-15)に大敗した。

この大敗は、海外のサッカー事情を知らない当時の在京サッカーマンには大きなショックで「なんとかしなければならない」という気持ちにかきたてられた。そこで、サッカーの普及と強化を目的に、高等師範と青山・豊島両師範の卒業生を中心としたクラブをつくることになり、東京蹴球団が結成された。日本最古のサッカークラブチームの誕生である。

東京蹴球団は2017年に創立100年を迎える。ちなみに、日本サッカー協会(当時は大日本蹴球協會)はその4年後に誕生した(東京蹴球団も同協会の発足に尽力)。
日本サッカー協会発足と共にスタートしたのが、今や冬のサッカーの風物詩となった天皇杯サッカー(全日本選手権大会)である。

東京蹴球団はこの歴史的大会の初代王者に輝いた。ここで疑問に思う人もいるのではないか。なぜ日本最古のクラブ・チーム、初代天皇杯王者という肩書きを持つチームが、現在の日本サッカー界の檜舞台に立っていないのだろうか。

青山学院大学グラウンドで練習試合を行う東京蹴球団イレブン

青山学院大学グラウンドで練習試合を行う東京蹴球団イレブン

サッカー史に名を残す先人の功績と宮本能冬氏のサッカー愛が鍵となる

そもそも東京蹴球団の創立を呼びかけたのは、日本サッカー殿堂入りを果たしている内野台嶺氏(1884~1953)という人物。東京蹴球団の初代団長を務めた同氏は、東京高等師範を卒業し、豊島師範教諭、東京高師教授、駒沢大学文学部長等を歴任した漢文学者で、サッカー日本代表のエンブレムである八咫烏の発案者でもある。

創立メンバーの中にいたのは、青山師範卒業の山田午郎氏(1894~1958)。山田氏は東京蹴球団が第1回天皇杯王者に輝いた時の主将であり、日本代表チームの監督も務め(1925年)、内野氏と同じく殿堂入りも果たした。

小学校訓導から、1926年に朝日新聞の記者となる。サッカー記者の草分け的存在として蹴球戦評で一時代を拓き、サッカーを語る者で山田午郎の名を知らぬ者はいなかったという。後に、東京蹴球団第3代団長となる。東京蹴球団にとって、内野団長は「生み親」であり、山田団長は「育ての親」であった。

山田氏の後継者として東京蹴球団4代目団長となった人物が、宮本能冬氏(1907~1994)である。宮本氏も山田氏と同じく、青山師範~小学校訓導~朝日新聞という経歴を歩んだ。第2次大戦直後は、日本代表チームのマネジャーとして、日本サッカー復興のために傾注。東京蹴球団が国体で全国優勝した時の監督も務め、深いサッカー理論と熱い情熱を併せ持った名監督であった。

1977年、東京蹴球団60周年の節目に宮本氏は『東蹴六十年史草稿』を著した。すべて宮本氏の手書きで220ページに及ぶ大冊。取材に2年、清書に1年をかけ執筆した。

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同書の冒頭に記された、宮本氏の「願い」がある。

(前略)混沌無明の日本サッカー界の黎明期に、高く理想の火をかかげて前人未到の道を拓いた先輩諸兄にとって名利は問うところではなかった。己に酬いを求めず、ひたすら、サッカー界のために尽くされたこれら先人にとり、サッカーは心の糧であっても、生活を支える具ではありえなかった。そこにスポーツ人としての生きざまが存した。(後略)

宮本氏はただただ、サッカーというスポーツを愛し、世に広く知らせたいという願いがあったのだと思う。

1973年、東京蹴球団は東京都リーグ2部に陥落した。この危難を乗り越えるために、宮本氏は「東蹴だより」を刊行。試合後にプレーの良し悪し、戦術・戦略の考え方等を手書きで詳細に記し、選手一人ひとりに配ったのだ。印刷代、郵送料等の費用は、すべて宮本氏のポケットマネーだった。

「東蹴だより」を受け取っていた当時のプレイヤー井上征生さん(現・東京蹴球団幹事長)は「あの時は僕の青春のすべてだった。宮本さんは、人のお金でチームが強くなったりすることはあまり望まなかったんじゃないかな」と語った。

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このようなエピソードから推測すると、東京蹴球団の礎を築いた先人の思いとは「純粋にサッカーを愛し、純粋に強くなる」ことではないか。ただそれだけを考えて生まれ、継続されてきたチームなのだと思える。

ちなみに東京蹴球団の団長という肩書きは宮本氏以降、襲名されていない。井上さん曰く「先人が偉大過ぎて誰も継げない」としている。

Jリーグが誕生した翌年に亡くなった宮本氏。晩年は何を思ったのか。「企業の力で強くなったチームが」と恨んだのか。「サッカーがここまで発展した」と喜んだのか。「いつかこの舞台で勝つチームに」と託したのか。

いずれにせよ、宮本氏の「願い」が100年続くチームのバックボーンになってきたことは間違いない。

偉大な先人の火を消さない。教員集団の系譜などに見られる人の繋がり

東京蹴球団が100年存続してきた理由は、もう一つある。それは人の繋がりだ。東蹴は創団以来、必ずしも限定された一校OBのみをメンバーとするものではなく、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の態度で終始してきた。

出身校は違っても一緒にボールを蹴った仲間は、同時に人間としても仲間でありたいという思いこそ、東蹴100年の歴史を支えてきた力である。

また、師範学校の流れを汲んだチームであるということも要因の一つに思う。師範学校とは、そもそも教職員を養成する機関。先述の宮本氏、幹事長の井上さん(東京学芸大学卒)も例に漏れず教員として活躍した。

そして2016年現在も、東京蹴球団は東京学芸大学出身プレイヤーが多く所属している。同大学は多くのJリーガーを輩出しているサッカーの名門であると同時に、教師を志す学生も抱える大学だ。

東京学芸大学。つまり、元青山師範である。このパイプこそ、東京蹴球団存続の強みとも言える。

2001年から東京蹴球団を率いている鈴木基之監督は「東京学芸大出身の選手が、後輩に入団を促してくれる。だから絶えず選手が確保できている」と分析。また「サッカーのレベルもそうだが、人間性が非常に優秀な選手ばかり」とも話した。

2001年から東京蹴球団を率いる鈴木監督

2001年から東京蹴球団を率いる鈴木監督

2016年、東京蹴球団は創立99年目にして、東京都社会人サッカーリーグ1部で年間初優勝を果たした。チームを引っ張ったのはセンターバックの西條尚人主将。彼もまた東京学芸大学出身だ。

西條主将は大学時代、レギュラーの座を掴むことができなかった。その悔しさを糧に、自営業をする傍ら社会人サッカーに励んでいる。もともとは別の社会人チームに所属していたが「もっと上を目指せて、知っている先輩がいるやりやすい環境で」との思いから東京蹴球団に移籍した。

このように、西條主将のような高い志を持った東京学芸大学出身の社会人サッカープレイヤーが集まってくる「流れ」があるのだ。こういった人の流れは、東京学芸大学のみならず、あらゆる所で作られた。

守備の要、西條主将

守備の要、西條主将

チームの存続に欠かせないものは、人材の確保である。先人・先輩をリスペクトし、その人を慕って一緒にプレーしたいという人の繋がりがもたらしたもので、東京蹴球団にはそれが脈々と受け継がれているのだ。

教員の系譜が色濃く残っていたため、「企業マネジメント能力」が不足して、1980年~1990年のサッカー界の変化に対応できなかったきらいもある。もし、マネジメント能力に優れた人材がいたら、東京蹴球団は違った形に発展・拡大できたかもしれない。

ともあれ、東京蹴球団は決して上を目指さないわけではない。とはいえ、スポンサーの力を借りて能力のある将来有望な若手や実績のある選手を獲得し、強くしていくわけでもない。今あるもので届く限界を目指す。それが東京蹴球団のマインドである。

ある意味で最もプロらしいスポーツ人が集まった、純粋なサッカーチーム

高いパフォーマンスでファンを楽しませるJリーグ。お金を払ってでも観たいから、熱狂する。ファンに感動を与えるために、プロは切磋琢磨している。その感動をサポートするためにスポンサーがあって、それで選手は生計を立てている。まさにプロフェッショナルスポーツだ。

一方で、プロフェッショナルスポーツの舞台に立てないチームや選手は、その何百倍も存在する。それらをアマチュアスポーツと呼ぶが、その違いはお金が動くか動かないかだけであって、同じスポーツというカテゴリに変わりはない。

東京蹴球団には、立派なクラブハウスもなければ専用グラウンドもない。週3回の練習を選手個人で自主的に行い、日曜日の試合にコンディションを合わせていく。当然、生活するためにサッカー以外の仕事をしながらだ。これはある意味で、Jリーガーよりも大変なことなのではないか。いわゆる、アマチュアスポーツのプロであると思う。

そして、東京蹴球団の選手は皆「走れる限りサッカーを続けたい」と思う人ばかり。現に40歳を越えた選手も在籍している。鈴木監督の言葉が頭をよぎる。「東京蹴球団を辞めるときがサッカーを辞めるとき。結構そういう合言葉でやっている選手が多い」。

なるほど、と納得する。

佐藤翔一●文 写真
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ライター紹介 ライター一覧

佐藤翔一

佐藤翔一

1985年生まれ。東京経済大学コミュニケーション学部卒業後、地域ミニコミ紙の編集記者、広告代理店を経てフリーライターへ。
元高校球児。高校時代は50m6秒フラットの俊足を武器に、中国地方一のセーフティバンター(自称)として活躍しそうになった。
現在はフットサルで右足首靭帯を損傷し、なんとかごまかしながら山登りやスノーボード、サバイバルゲームなどに没頭しつつ、野球をはじめとするスポーツを幅広く取材・撮影・執筆。3大好きなアスリートは野球の嶋基宏、サッカーの大久保嘉人、K1のレイ・セフォー。

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